1247年 (寛元5年、2月28日 改元 宝治元年 丁未)
 
 

9月1日 辛亥
  亥の一刻より丑の四点に至るまで大風。仏閣・人家多く以て顛倒・破損すと。
 

9月2日 壬子
  子の刻大風猶休まず。樹木皆吹き折れると。
 

9月6日 丙辰 雨 [葉黄記]
  評定有り。仍って院に早参す。神宮神宝発遣の駅家合期せずと。子細を近江の国司に
  仰せ遣わしをはんぬ。人夫また違乱すと。武家に仰せられをはんぬ。
 

9月9日 己未
  仰せに依って諸人菊を献ず。各々一首の和歌を副える所なり。悉く幕府北面の小庭に
  植えらると。
 

9月11日 辛酉
  筑後左衛門次郎知定和字の款状を捧ぐ。これ合戦の賞に漏れるの事を愁うなり。先ず
  累家の勲功を載せるの上、例を勘じて云く、朱雀院の御宇承平二年己亥、平将門東国
  に於いて反逆の間、同三年正月十八日参議右衛門の督藤原忠文征夷大将軍の宣旨を蒙
  り、節刀を賜わり関東に下向す。而るに未だ到らざる以前、同二月二十四日藤原秀郷
  の為将門誅せらるるの間、忠文途中より帰洛す。三月九日秀郷・貞盛等賞に行わるる
  の処、忠文同じくその賞を蒙るべきの由これを申すに就いて、陣定の一座有り。小野
  宮殿申されて云く、賞の疑わしきは行わずと。次いで九條殿申されて云く、下着以前
  に逆徒滅亡せしむと雖も、勅定に随うの功何ぞ棄損せられんや。刑の疑わしきは行わ
  ず、賞の疑わしきは聴すと。然れども先の意見に就いてその沙汰無し。忠文恩言に喜
  び、家領の券契状を九條殿に進し置きをはんぬ。卒逝の期に至るまで、小野宮殿を怨
  み奉るとてえり。左親衛数返これを披覧し、知定すでに獲鱗の一句を述ぶ。何ぞその
  沙汰無からんや。勲功の奉行人等に仰せ淵源を究めるの後、評定の次いでに披露すべ
  きの由、直に諏方兵衛入道に示し付けしめ給うと。
 

9月13日 癸亥
  左親衛右大将家の法華堂に詣でしめ給う。恒例の御仏事、頗る結構に及ぶと。
 

9月16日 丙寅
  相模の国毛利庄の山中怪異等有り。毎夜田楽の粧いを為すの由、土民等言上すと。
 

9月17日 丁卯 晴 [葉黄記]
  東官使スワノ兵衛入道上洛す。