1247年 (寛元5年、2月28日 改元 宝治元年 丁未)
 
 

11月1日 庚戌
  午の刻鶴岡馬場の流鏑馬舎これを建てらる。去る六月合戦の日焼亡に依ってなり。ま
  た今日の評定、仰せ出されて云く、地頭一円の地たりと雖も、名主子細を申さば、事
  の躰に依ってその沙汰有るべしと。
 

11月7日 丙辰
  丑の刻失火に依って、金剛寿福寺仏殿以下惣門に至るまで悉く以て災す。
 

11月11日 庚申
  筑後左衛門次郎知定恩澤に浴す。去る六月五日の勲功の賞なり。これ疑貽有るに依っ
  て暫く閣かるるの処、頻りに愁い申すの間、その沙汰を究めらる。而るを武藤左衛門
  の尉景頼證人として起請文を進して称く、知定須知替橋に於いて合戦を致し、岩崎兵
  衛の尉を討ち取る事異儀無してえり。これに就いてこの儀に及ぶと。今度勲功の間の
  珍事これなり。都鄙の口遊み有りと。今日地頭一円の地、名主・百姓訴訟の事、法に
  定められて云く、開発領過失無くば、道理に任せ御成敗有るべしと。
 

11月14日 癸亥
  相州新造の花亭に移徙の儀有り。評定所並びに訴訟人等の着座屋・東小侍等、今度始
  めて造り加う所なり。
 

11月15日 甲子 天晴
  鶴岡八幡宮の放生会なり。去る六月五日泰村追討の触穢並びに流鏑馬舎炎上等の事に
  依って、式月延びて今日に及ぶと。将軍家御出の儀(御束帯・御車)有り。卿相雲客
  参会す。五品以下の扈従例の如し。
  先陣の随兵
   波多野出雲の前司    三浦五郎左衛門の尉
   壱岐次郎左衛門の尉   宇佐美籐内左衛門の尉
   信濃四郎左衛門の尉   和泉次郎左衛門の尉
   武蔵の四郎       下野の七郎
   北條の六郎       越後の五郎
  後陣の随兵
   前の大蔵権の少輔    城の九郎
   長井の太郎       上野の三郎
   佐渡五郎左衛門の尉   摂津左衛門の尉
   伊豆太郎左衛門の尉   伊勢加藤左衛門の尉
   伊賀次郎左衛門の尉   江戸の七郎太郎
   大須賀左衛門の尉    梶原右衛門の尉
 

11月16日 乙丑 天晴、申の刻以後南風烈し
  今日三浦五郎左衛門の尉盛時状を捧げ訴え申す事有り。その旨趣これ多しと雖も、詮
  句昨日の随兵の風記の如きは、盛時を以て出雲の前司義重の下に書き載せられをはん
  ぬ。当家代々未だ超越の遺恨を含まざるの処、啻に一眼の仁に書き番わるるのみなら
  ず、剰えまたその名の下に注せらる。旁々面目を失うの間、供養の儀を止むべきの由
  と。出雲の前司義重この事を聞き、殊に憤り申して云く、累家の規模に於いては、誰
  か比肩すべきや。一眼の事に至りては、承久兵乱の時抜群の軍忠を抽んで疵を被る。
  名誉を都鄙に施すの上、還って面目の疵なり。今更盛時の嫌難に覃びがたしと。陸奥
  掃部の助の奉行として、相州並びに左親衛等評定を凝らし、両方を宥めらる。但し五
  位たるの間、猶義重を以て上に注せらるる所なり。午の刻将軍家御出で。馬場の儀等
  に及ぶ。例の如し。
 

11月17日 丙寅
  出雲の前司義重猶申す旨有り。これ昨日は御出の障碍を成さざらんが為、強いて所存
  を竭さず。盛時の申状太だ以て傍若無人、後日の為尤も糺明せられんと欲すと。殊に
  宥めの御沙汰をはんぬ。重ねて鬱憤有るべからざるの旨仰せ出さると。
 

11月20日 己巳
  鶴岡臨時祭なり。九月九日分の祭礼延引するの間、これを遂行せらると。
 

11月23日 壬申
  従五位上行伊豆の守藤原朝臣尚景死す(年二十五)。大夫の尉景廉の男なり。
 

11月26日 乙亥 陰
  丑の一点大地震と。
 

11月27日 丙子
  畿内諸国の守護・地頭等所務の事、散乱の子細有るの由風聞せしむに依って、今日そ
  の沙汰有り。六波羅に仰せ遣わさるる所なり。その詞に云く、
   諸国の守護・地頭等、内検を遂げ、過分の所当を責め取るの間、土民百姓を安堵せ
   しめ難き事、国司・領家の目録に就いて沙汰を致すべきの由、守護・地頭に相触れ
   らるべきの状、仰せに依って執達件の如し。
     宝治元年十一月二十七日    左近将監
                    相模の守
   相模左近大夫将監殿
  また主従敵対の事、理非を論ぜず、自今以後沙汰すべからざるの由定めらると。