1247年 (寛元5年、2月28日 改元 宝治元年 丁未)
 
 

12月1日 庚辰
  相州・左親衛等会合す。万事遊興に及ぶと。
 

12月3日 壬午
  左親衛御祈り等を始めらると。
 

12月5日 甲申
  名越尾張の前司の辺人家数十宇焼亡すと。
 

12月8日 丁亥
  評定有り。諸国の地頭等と雑掌と相論に就いて、一決せらるるの事有り。所謂有限の
  年貢進済の外、庄官百姓等の名田畠に於いては、下地を進止すべきの由地頭等これを
  申す。有限の給田の加徴は地頭・雑色等の外、名田畠の下地に於いては、往古より本
  所進止の由、雑掌これを申す。先々度々の御下知に任せ、率法を守るべきの旨仰せ出
  さると。
 

12月10日 己丑
  将軍家馬場殿に出御し、遠笠懸を覧る。相州・左親衛参候せしめ給う。
  射手
   陸奥掃部の助      北條の六郎
   城の九郎        佐渡五郎左衛門の尉
   遠江次郎左衛門の尉   信濃四郎左衛門の尉
   下野の七郎       武田の五郎三郎
   武蔵の四郎       小笠原の与一
 

12月12日 辛卯
  評定有り。その次いでを以て、諸国の地頭所務に就いて法を定めらるる事有り。所謂
  縦え押領以後二十箇年を過ぎると雖も、年紀に依るべからず。本地頭は先例に任せ、
  新地頭は率法を守り、沙汰を致すべきの由と。今日訴論人の参候所を定めらる。
  その状に云く、
  一、訴訟人座籍の事
    侍は客人座(奉行人召すの外、後座に参るべからず)
    郎等は廣庇(召すの外、南廣庇に参るべからず。但し陸奥沙汰の時は、召しに随
          い参るべし。郡郷沙汰人は、時儀に依り小縁に参るべし)
    雑人は大庭(召しに応ぜざるの外、相模・武蔵の雑人等、南壺に参入すべからず)
   右奉行人を差し定め両方に召し問うの後、一方難渋を致し日数を送り、対決の日よ
   り二十箇日を過ぎらば、理非を顧みず、訴人の申状に任せ御成敗有るべしてえり。
     宝治元年十二月十二日
 

12月16日 甲午
  評定の後、御所に於いて御酒宴有り。左親衛以下人々数輩参候す。これ去る十日の御
  笠懸の御勝負会なり。
 

12月29日 丁未
  恩澤の沙汰有り。去る六月合戦の賞これに相交ゆ。結城上野入道日阿鎮西小鳥庄を拝
  領す。これ泰村追討の事に就いて頗る過言に及ぶの間、咎め仰せらるべきかの由、沙
  汰有りと雖も、その性素より廉直なり。過言を称すは、ただ無私の致す所なり。且つ
  は適々関東の遺老たり。言語の誤りを咎め巡恩に漏れしむの條、政道の恥たるべきの
  由、左親衛殊に執り申せしめ給うと。また京都大番勤仕の事これを結番す。各々面々
  三箇月を限り在洛を致し、所々を警固せしむべきの旨これを定め下さると。
    一番 小山大夫判官       二番 遠山前の大蔵少輔
    三番 嶋津大隅の前司      四番 葛西伯耆の前司
    五番 中條籐次左衛門の尉    六番 隠岐出羽の前司
    七番 上野大蔵権の少輔     八番 千葉の介
    九番 完戸壱岐の前司      十番 足立左衛門の尉跡
   十一番 後藤佐渡の前司     十二番 伊東大和の前司
   十三番 佐々木隠岐の前司    十四番 佐々木壱岐の前司
   十五番 三浦の介        十六番 名越尾張の前司
   十七番 秋田城の介       十八番 大友豊前の前司跡
   十九番 足立左馬の頭入道    二十番 天野和泉の前司跡
  二十一番 信濃民部大夫入道   二十二番 宇都宮下野の前司
  二十三番 甲斐の前司