1248年 (宝治2年 戊申)
 
 

2月1日 己卯
  鶴岡の神事例の如し。
 

2月5日 癸未
  永福寺三堂修理の事、去る寛元二年七月その沙汰に及ぶと雖も、日来頗る懈緩なり。
  而るに左親衛明年は二十七歳の御慎みなり。当寺を興行せらるべきの由、霊夢の告げ
  有るに依って、殊に思し食し立つと。当寺は、右大将家文治五年伊豫の守義経を討ち
  取り、また奥州に入り藤原泰衡を征伐す。鎌倉に帰らしめ給うの後、陸奥・出羽両国
  知行せしむの由勅裁を蒙らる。これ泰衡管領の跡たるに依ってなり。而るを関東長久
  の遠慮を廻らしめ給うの余り、怨霊を宥めんと欲す。義経と云い泰衡と云い、指せる
  朝敵に非ず。ただ私の宿意を以て誅亡するが故なり。仍ってその年内営作を始めらる。
  随って壇場の荘厳、偏に清衡・基衡・秀衡(以上泰衡の父祖)等建立の平泉の精舎を
  模されをはんぬ。その後六十年の雨露月殿を侵すと。明年は、義経並びに泰衡一族滅
  亡の年の支干に相当たる所なり。
 

2月12日 庚寅
  左親衛の御祈り等結願すと。
 

2月18日 丙申
  問注記の事、相模三郎入道眞昭の勘は万條々遅怠す。殊に咎め仰せらる。陳べ申す旨
  等有りと。