1248年 (宝治2年 戊申)
 
 

1月1日 庚戌 天晴
  椀飯(左親衛御沙汰)例の如し。進物の役人、御劔は前の右馬権の頭、御調度は尾張
  の前司、御行騰は秋田城の介。
   一の御馬 北條の六郎      平左衛門次郎
   二の御馬 武藤の四郎      工藤六郎左衛門の尉
   三の御馬 足利の三郎      同次郎
   四の御馬 遠江次郎左衛門の尉  同六郎兵衛の尉
   五の御馬 出羽次郎左衛門の尉  同三郎
 

1月3日 壬子
  椀飯(相州御沙汰)以後、将軍家御行始めの儀有り。左親衛の御亭に入御す。
  供奉人
  五位
   前の右馬権の頭(御沓) 尾張の前司      備前の前司
   相模右近大夫将監    宮内少輔       陸奥掃部の助
   甲斐の前司       秋田城の介      新田参河の前司
   少輔左近大夫将監    出羽の前司      下野の前司
   上野大蔵少輔      越中の前司      大和の前司
   長門の守        筑前の前司      大隅の前司
   上野の前司       矢木式部大夫     壱岐の前司
  六位
   上野彌四郎左衛門の尉  信濃四郎左衛門の尉  上野三郎兵衛の尉
   宇佐美籐内左衛門の尉  大曽祢太郎左衛門の尉 同次郎右衛門の尉
   筑前四郎右衛門の尉   遠江次郎左衛門の尉  武藤左衛門の尉
   伊東次郎左衛門の尉   和泉次郎左衛門の尉  彌次郎左衛門の尉
   小野寺新左衛門の尉   三村新左衛門の尉   長三郎左衛門の尉
   摂津新左衛門の尉    備後次郎兵衛の尉   土肥次郎兵衛の尉
   遠江六郎兵衛の尉    和泉五郎左衛門の尉  壱岐新左衛門の尉
   鎌田次郎兵衛の尉
  その外帯劔・直垂六位十人
   上野の十郎       小野澤の次郎     佐々木三郎左衛門の尉
   伯耆兵衛の尉      出羽三郎左衛門の尉  千葉の次郎
   城の次郎        長江の七郎      土屋の新三郎
   渋谷の次郎太郎
    以上御車の左右に候す。
 

1月7日 丙辰
  広御出居に於いて、評定衆老若の着座次第を定めらる。
  老座
   相州       相模三郎入道    摂津の前司
   伊賀式部入道   信濃民部大夫入道  大田民部大夫
   清左衛門の尉
  若座
   左親衛      前の右馬権の頭   武蔵の守
   尾張の前司    甲斐の前司     秋田城の介
   出羽の前司    下野の前司     天野外記大夫
  以上仰せに依って定める所斯くの如し。但し城の介と出羽の前司とは、一日は上、一
  日は下、各々相替わり着座すべしてえり。
 

1月15日 甲子
  御弓始めなり。射手十人、二五度これを射る。各々立烏帽子・水干・葛袴恒の如し。
  而るに伊東次郎左衛門の尉は布衣を着す。これ椀飯の座より起ち、所役に従うに依っ
  てなり。
   一番 伊東次郎左衛門の尉  早河の次郎太郎
   二番 小野澤の次郎     横溝の七郎五郎
   三番 桑原の平内      布施の三郎
   四番 工藤右近次郎     池田の五郎
   五番 武田の太郎      平井の八郎
 

1月20日 己巳 天晴
  将軍家鶴岡八幡宮に御参り。御束帯・御乗車なり。供奉人去る三日の御行始めの儀に
  同じ。但し宮内少輔御劔を持つ。小野寺新左衛門の尉御調度を懸く。また直垂を着し
  帯劔せしむの輩十二人たり。薩摩の九郎・波多野出雲の五郎等を加えらるるが故なり。
  小山大夫判官長村先行せしむと。
 

1月22日 辛未
  左親衛の御亭に於いて御祈祷等を始行せらる。聊か思し食す所有りと。
 

1月25日 甲戌
  京都大番役の事、西国の名主・庄官等の類の中、御家人に募るの者有り。然る如きの
  輩、守護人に随いこれを勤仕せしむと雖も、各別の請取を賜うべきや否やの事、再び
  御沙汰に及ぶと雖も、平均に於いてはこれを聴され難し。その仁躰に依って用捨有る
  べきの趣、六波羅に仰せらるべしと。