1248年 (宝治2年 戊申)
 
 

5月2日 己酉
  鶴岡の別当法印、左親衛の御祈りの為、去る月八日諏訪社に参り、今夕帰参す。
 

5月5日 壬子
  鶴岡の神事例の如し。武蔵の守朝直朝臣奉幣の御使として参宮すと。今日、幕府に於
  いて和歌御会有り。左親衛参り給うと。
 

5月15日 壬戌
  今日の評定、條々仰せ出さるる事有り。所謂[盗人の罪科軽重の事、小過たらば、一
  倍の弁を致すの後]、小過の盗犯を企てるに於いては、重科に准え、一身の咎に行わ
  るべきなり。雑務奉行人これを存知べしてえり。明石左近将監奉行たり。次いで主従
  対論の事、自今以後是非を論ぜず、御沙汰有るべからずと。

**主従対論の事[鎌倉幕府法]
  宝治二年七月二十九日評定
   右、去年冬比御沙汰有るか。自今以後に於いては、是非を論ぜす、御沙汰有るべか
   らざるか。
 

5月16日 癸亥
  兄弟相論の時、父母を以て證人に立て申す事、天野和泉の前司子息・兄弟等相論の時、
  母堂を以て證人に立て申すと雖も、自今以後許容せらるべからざるの由、今日評定に
  及ぶと。
 

5月18日 乙丑
  秋田城の介入道(高野入道と号す。法名覺地)卒す(時に高野に在り)。
   従五位下行出羽権の介藤原朝臣景盛(法名覺地、大蓮房と号す)、籐九郎盛長の男、
   母は丹後の内侍。
   建永二年月日、右衛門の尉に任ず。建保六年三月六日、出羽権の介に任ず。秋田城
   の介たるべきの由宣下す。同四月九日叙爵。同七年正月二十七日出家。
 

5月20日 丁卯
  雑務等の事に就いて定め下さるるの篇目有り。雑人訴訟の事、度々の奉書を下すと雖
  も、論人叙用せず。自今以後召文三箇度の後は、今度違背せしめば後悔有るべきの由、
  日数を差し、国の雑色を以て召文を下し遣わさるべきなり。この上或いは自由の陳状
  を捧げ、違期せしめば、訴状に任せ成敗有るべしてえり。また謀叛人出挙の事、その
  一類所従は沙汰に及ばず。百姓等の分に至りては、早く弁を致すべきの由御成敗有る
  べしてえり。且つは六波羅に仰せ遣わさるる所なり。

**雑人訴訟の事[鎌倉幕府法]
  宝治二年三月二十日評に云く、雑人訴訟の事、奉行人奉書を遣わすと雖も、論人等叙
  用せざるの由その聞こえ有り。所存の趣甚だ穏便ならず。自今以後、召文三箇度の後
  は、後悔有るべきの旨、日限を差し、国の雑色を以て、召文を下し遣わさるべきなり。
  この上自由の陳状を捧げ、違期せしめば、訴訟を停め成敗せらるべきの状件の如し。
 

5月28日 乙亥
  左親衛の妾(幕府女房)男子平産すと。今日字を授けらる。寶壽と。