1250年 (建長2年 庚戌)
 
 

8月1日 甲午
  常陸の国鹿嶋社神宮寺の本尊、汗を降らせしめ給うの由注し申すと。
 

8月7日 庚子
  幕府の北小庭に石を立てらるべきの由その沙汰有り。今日阿弥陀堂の加賀法印定清召
  しに依って参入す。仰せ含めらるる所なり。武藤左衛門の尉景頼奉行たりと。
 

8月10日 癸卯 [百錬抄]
  春日の神人三百余人蜂起し、吉田中納言(為経卿)亭に発向す。和泉の国三升米訴訟
  の事に依ってなり。
 

8月15日 戊申
  鶴岡の放生会なり。将軍家御出の儀有りと。
  随兵
  先陣
   相模の三郎太郎時成  武蔵の四郎時仲     三浦の介盛時
   梶原左衛門の尉景俊  上野五郎兵衛の尉重光  常陸次郎兵衛の尉行雄
   足利の三郎家氏    城の九郎泰盛      北條の六郎時定
   遠江の太郎清時
  後陣
   越後の五郎時家    相模の八郎時隆     武田の五郎三郎政綱
   江戸の七郎太郎重光  出羽の三郎行資     大泉の九郎長氏
   橘薩摩の余一公員   土肥次郎兵衛の尉    葛西新左衛門の尉清時
   千葉の次郎胤泰
 

8月16日 己酉
  将軍家鶴岡上下宮に於いて奉幣せしめ給う。その後馬場の儀有り。
 

8月18日 辛亥
  将軍家逍遙の為由比浦に出でしめ給う。前後の供奉人皆直垂を着し弓箭を帯す。而る
  を歳四十以後の人々征矢を負い、四十未満の輩野箭を帯すと。犬追者有り。射手上下
  に相分れ、各々六騎。箭員は上手四十四疋・下手四十七疋なり。越後の五郎・武蔵の
  太郎等射手に催せらるると雖も、今度各々障りを申すと。
  御出の行列
  先行十騎(三騎相並ぶ)
   陸奥の四郎       遠江の六郎      相模の三郎太郎
   武蔵の四郎       足利の三郎      長井の太郎
   城の九郎(一騎)
   陸奥の七郎       尾張の次郎      越後の五郎
  次いで将軍家(御水干)御騎馬
   佐渡五郎左衛門の尉   肥後次郎左衛門の尉  土肥次郎兵衛の尉
   善太郎左衛門の尉    摂津新左衛門の尉   筑前の四郎
   江戸の七郎太郎     武石の四郎      出羽の三郎
   伯耆新左衛門の尉    鎌田左衛門の尉(已上歩行。御駕の左右に候す)
  次いで御後
   備前の前司       遠江の守       相模左近大夫将監
   陸奥掃部の助      宮内少輔       遠江左近大夫将監
   北條の六郎       遠江の太郎      相模の八郎
   武蔵の太郎       武蔵の五郎      上野の前司
   那波左近大夫      小山出羽の前司    佐々木壱岐の前司
   筑前の前司       伊勢の前司      佐渡大夫判官
   遠江次郎左衛門の尉   梶原左衛門の尉    三浦の介
   上野の十郎       阿曽沼の小次郎    千葉の次郎
   城の次郎        同三郎        同四郎
   大曽禰左衛門の尉    大曽禰次郎左衛門の尉 隠岐次郎左衛門の尉
   遠江六郎左衛門の尉   式部六郎左衛門の尉  武藤左衛門の尉
   遠江新左衛門の尉    小野寺三郎左衛門の尉 出羽次郎左衛門の尉
   小野寺四郎左衛門の尉  足立太郎左衛門の尉  中條出羽四郎左衛門の尉
   信濃四郎左衛門の尉   伯耆四郎左衛門の尉  和泉次郎左衛門の尉
   善右衛門の尉      彌次郎左衛門の尉   常陸次郎兵衛の尉
   土肥の四郎       薩摩七郎左衛門の尉  同九郎
   武田の五郎三郎
  犬追者射手
   一番 四十四疋
    遠江六郎左衛門の尉  小笠原の余一     遠江の六郎
    城の次郎       遠江新左衛門の尉   信濃四郎左衛門の尉
   二番 四十七疋
    武田の五郎三郎    薩摩の九郎      上野の十郎
    城の九郎       土肥の四郎      和泉次郎左衛門の尉
   逃げる犬九疋
 

8月26日 己未
  雑人訴訟の事に就いてその法を儲けらる。これ御下知違背の濫吹なり。慥に停止すべ
  し。但し御下知を叙用し欝訴を言上するは、制限に非ざるの由と。
 

8月27日 庚申
  相州の室懐孕す。祈請等これを行わると。