1250年 (建長2年 庚戌)
 
 

12月3日 甲午 天晴
  今日佐々木壱岐の前司泰綱の子息小童(九歳)、相州の御亭に於いて元服を遂ぐ。三
  郎頼綱と号す。御引出物以下経営善を尽くし美を極む。一門衆群参し、各々所役に随
  うと。奥州・秋田城の介等参会せらるる所なり。
 

12月5日 丙申
  今日相州飛脚を京都に遣わさる。これ室家懐孕の着帯加持の事、若宮の別当法印(隆
  弁)を用いらるべきの処、住寺の間招請せらるるに依ってなり。秋田城の介同じく使
  者を遣わすと。この事去る五月の比その気分御すの由、女房の説有りと雖も、然らず。
  来八月必定たるべきの旨法印これを申せらる。果たして掌を指すが如しと。
  相州の御分国並びに庄園、明年五月に至るまで殺生を禁断すべきの由、下知せしめ給
  う。これ御産の御祈りに依ってなり。奥州同じくこの徳を行わると。
 

12月7日 戊戌
  召文に違う輩罪科の事その沙汰有り。三箇度叙用せざれば、御使を以てこれを催促す
  べし。猶難渋せしむに於いては、これを注し申すに随い罪科の左右有るべきの旨、三
  番引付以下の方々に触れらるる所なり。
 

12月8日 己亥
  相州大倉薬師堂に参り給う。これ偏に彼の懐婦平安の御祈りなり。剰え願書を内陣に
  納め奉らると。
 

12月9日 庚子
  野本の次郎行時名国司所望の事、父時員能登の守に任ずるの時、成功を付けず、直に
  拝除せしむの上は、彼の例の如く臨時の内給たるべきの由これを申す。清左衛門の尉
  の奉行として、今日沙汰有り。その父時員は越後入道勝圓に属き、在京の時彼の内挙
  に付け自然任せしむるか。法を堅めらるるの後は、例と為すに足らざるの間、輙く許
  容に覃びがたきの旨仰せ出さる。また臨時内給の事、三分官等に於いては、事の躰に
  依ってこれを申請せらるべし。名国司以上に至りては、その競望を停止せらるべきの
  由と。

[百錬抄]
  造閑院上棟已下日時定め。権大納言公相卿これに参入す。
 

12月11日 壬寅
  幕府南庭に連夜狐吟す。今夜の大番衆中筑後左衛門次郎知定の代官男引目を以てこれ
  を射る。依って東唐門より走り出る。吟声比企谷の方に到ると。
 

12月13日 甲辰 天晴、風静まる
  今日相州の室妊帯を着せらる。鶴岡の別当法印(隆弁)これを加持す。法印去る九月
  以後住寺するの処、この請いに依って態と遣わさるる所の飛脚、萱津の駅に相逢うの
  間、寸陰を競い、今夕走り着くと。また御祈り等を始行せらる。薬師護摩(雑掌秋田
  城の介義景)、如意輪護摩(雑掌奥州)、北斗供(雑掌相州)。已上三壇、法印一人こ
  れを兼修すと。
 

12月15日 丙午
  幕府小侍宿直奉公辛労の類等、今日多く以て新恩に浴す。凡そ勤厚の輩に於いては、
  年臈を論ぜず、この御計有るべき由仰せ出さると。
 

12月18日 己酉
  相州室家の御願として、七観音の堂前に於いて誦経を修せらる。各々その別当等に仰
  す。塩飽左衛門大夫信貞これを奉行す。
 

12月20日 辛亥
  御所中頗る人無し。小侍所より頻りに催促を加えらるると雖も、その詮無きに似たり。
  仍って相州に伺い申すの間、披露せしむべきの旨返答せしめ給うに就いて、今日その
  沙汰有り。不法の輩に於いては出仕を止められ、多年勤厚の人をその闕に加え、始め
  て結番せしむべきの由これを定めらる。清左衛門の尉彼の事書を読み申すと。
 

12月21日 壬子
  明春正月御弓始めの射手の事、今日進奉を召し整え、その沙汰有り。的調べに参るべ
  きの人数用捨に及ぶ。治定分に於いては早く相触るべきの由、朝夕の雑色番頭湯浅の
  次郎国弘・本田の太郎宗高・和海の三郎家眞等に仰せ付けらるる所なり。
 

12月23日 甲寅
  相州の妾三河の局他所に移る。聊か口舌等有り。奥州子細を申せらるるに依って、俄
  にこの儀有り。これ二男若公の母なり。
 

12月27日 戊午
  近習結番の事治定す。自今已後、不事の輩に至りては名字を削り、永く出仕を止むべ
  きの由、厳密にこれを触れ廻らさると。彼の番帳、中山城の前司盛時清書を加う所な
  り。
   定 
   結番の事(次第不同)
   一番 子午
    備前の前司     遠江左近大夫将監  遠江の六郎    武蔵の五郎
    城の九郎      小山出羽の前司   能登左近大夫   武藤左衛門の尉
    出雲五郎左衛門の尉 隠岐次郎左衛門の尉 筑前次郎左衛門の尉
    式部六郎左衛門の尉 同兵衛太郎     佐貫の弥四郎   山内の三郎太郎
    平賀の新三郎
   二番 丑未
    遠江の守      相模式部大夫    遠江の太郎    長井の太郎
    佐々木壱岐の前司  内蔵権の頭     大曽禰次郎左衛門の尉
    大須賀左衛門の尉  遠江新左衛門の尉  薩摩七郎左衛門の尉
    足立太郎左衛門の尉 阿曽沼の小次郎   大曾禰の五郎   土肥の四郎
    三村新左衛門の尉  加藤の三郎
   三番 寅申
    相模左近大夫将監  武蔵の太郎     相模の八郎    那波左近大夫
    安藝の前司     城の次郎      出雲次郎左衛門の尉
    伊東八郎左衛門の尉 千葉の次郎     隠岐新左衛門の尉
    伊賀次郎左衛門の尉 宇佐美籐内左衛門の尉 壱岐太郎左衛門の尉
    加地の太郎     武藤の八郎     本間次郎兵衛の尉
   四番 卯酉
    宮内少輔      上野の前司     足利の三郎    新田参河の前司
    下野の七郎     佐渡大夫判官    梶原左衛門の尉  同太郎
    信濃四郎左衛門の尉 出羽次郎左衛門の尉 小野寺新左衛門の尉
    上野の十郎     波多野の小次郎   中條出羽四郎左衛門の尉
    伊賀の四郎     鎌田次郎兵衛の尉
   五番 辰戌
    北條の六郎     尾張の次郎     武蔵の四郎   城の三郎
    近江大夫判官    遠江次郎左衛門の尉 同六郎左衛門の尉
    摂津新左衛門の尉  伯耆四郎左衛門の尉 善太左衛門の尉 備後次郎兵衛の尉
    出羽の三郎     波多野五郎兵衛の尉 伊賀の三郎   筑後左衛門次郎
    土屋新左衛門の尉
   六番 巳亥
    陸奥掃部の助    陸奥の四郎     越後の五郎    上野の三郎
    佐渡五郎左衛門の尉 和泉次郎左衛門の尉 肥後次郎左衛門の尉
    和泉七郎左衛門の尉 彌次郎左衛門の尉  常陸次郎兵衛の尉 薩摩の九郎
    小野澤の次郎    筑前の四郎     大泉の九郎    渋谷の次郎太郎
    長江の七郎
   右結番次第を守り、一日夜懈怠無く勤仕せしむべきの状、仰せに依って定める所件
   の如し。
     建長二年十二月日       相模の守
                    陸奥の守
 

12月28日 己未
  下野の国大介職は、伊勢の守藤成朝臣以来、小山出羽の前司長村に至るまで、十六代
  相伝す。敢えて中絶の儀無きの処、大神宮雑掌の訴えに依って改補せらるる所なり。
  彼の訴訟の事に於いては、米銅以下の贖を以て解謝せしめをはんぬ。二罪に行わるの
  條、殊に愁訴を含むの由、長村連々言上するの間、返さるべきの旨評儀に及ぶと。
 

12月29日 庚申
  奥州・相州、右大将家・右大臣家・二位家並びに右京兆等の御墳墓堂に巡礼せしめ給
  う。後藤佐渡の前司・小山出羽の前司・三浦の介・出羽の前司・刑部大輔入道等参会
  すと。今日條々施行の事等有り。所謂新造の閑院殿遷幸の時瀧口衆の事、関東より催
  し進せらるべきの旨仰せ下さるる所なり。仍って日来沙汰有り。寛喜二年閏正月の例
  に任せ、各々子息を進すべきの由、然るべきの氏族等に召し仰す。但し彼の時の人数
  記分明ならざるの間、給う所の御教書を尋ね出され、その跡等に就いて、今日仰せ付
  けらるるの処、押垂齋藤左衛門の尉跡の輩申して云く、瀧口に祇候し御う事、前蹤無
  きに非ず。就中本所屋の営作即ち吾等の所役なり。御家人を差し進せらるるに於いて
  は、尤もその中に加えられんと欲すと。然れども人数既に治定するの上は、後日の次
  いでを以て、申し出せしむべきの由と。清左衛門の尉奉行たり。次いで隠岐太郎左衛
  門入道心願は、佐々木隠岐の前司義清の嫡男、幕府の近習なり。俄に以て出家遁世せ
  しめをはんぬ。而るに若狭の前司泰村北條殿の御縁者として、殆ど武家の権柄を極む
  なり。すでに諸人の上首たるに似たり。時に心願独り異心を挿み、座着の上下如きの
  事に就いて度々喧嘩に及び、始終相争うことを得ず。出家せしむの企て、この事より
  起こると。件の所領に於いては舎弟次郎左衛門の尉泰清に賜う。その後心願の子息等
  出生しをはんぬ。泰村また滅亡す。漸く後悔の気有るの上、子息を扶持せしめんが為、
  本領掌の地少々和與せしむべきの由、還って懇望すと雖も、泰清敢えて以てこれを諾
  許せしめざるに依って、結句彼の子息等上訴を企てるの処、再往群議を凝らされ、許
  され難きの旨仰せ出さるる所なり。中山城の前司これを奉行すと。