1251年 (建長3年 辛亥)
 
 

2月1日 辛卯 天晴
  鶴岡臨時祭。御神楽例の如し。今日京都の使者参着す。去る月二十二日北政所御産と。
  また二日式乾門院崩御すと。
 

2月6日 丙申 天霽
  申の刻雷鳴。
 

2月10日 庚子 天晴
  甘縄の辺焼亡す。火は地相法橋の宅より起こる。戌の刻より子の一点に到るまで止ま
  ず。東は若宮大路、南は由比浜、北は中下馬橋、西は佐々目谷なり。相模右近大夫将
  監時定・相模の八郎時隆等の第以下数箇所災すと。今日相州自ら筆を染め、御書を二
  條殿に献らる。向後御心安く存ずべきの由と。
 

2月20日 庚戌
  大御厩(この間新造、葛西谷口河俣)の後山崩顛す。人多く以て土石の谷に推されて、
  二人立ちどころに亡ぶと。
 

2月24日 甲寅
  前の右馬権の頭の第に於いて、当座三百六十首の継歌有り。二條中将・尾張少将・武
  蔵の守・遠江の守・佐渡の前司・鎌田次郎兵衛の尉等会合す。三百六十種の重宝を以
  て、置物にせんと欲すと。
 

2月27日 丁巳 [百錬抄]
  戌の刻、熊野本宮焼亡す。