1254年 (建長6年 甲寅)
 
 

1月1日 乙亥 朝雪聊か散る。巳の刻霽に属く
  今日椀飯(相州御沙汰)。土御門宰相中将御簾を上ぐ。御劔は前の右馬権の頭、御調
  度は武蔵の守朝直、御行騰は尾張の前司時章・下野の前司泰綱。
   一の御馬 遠江の六郎教時      同七郎時基
   二の御馬 薩摩七郎左衛門の尉祐能  同九郎祐朝
   三の御馬 遠江次郎左衛門の尉光盛  同十郎頼連
   四の御馬 三村新左衛門の尉時親   同三郎兵衛の尉
   五の御馬 北條の六郎時定      工藤次郎右衛門の尉高光
  椀飯以後、将軍家御行始めの儀有り。申の一刻相州の御亭に入御す。御引出物例の如
  し。中務権の大輔家氏御劔を持参す。砂金、 羽、 御馬、
  供奉人(布衣、下括り)
   前の右馬権の頭政村   武蔵の守朝直      尾張の前司時章
   相模式部大夫時弘    越後右馬の助時親    中務権大輔家氏
   陸奥の弥四郎時茂    遠江の六郎教時     遠江の太郎清時
   足利上総の三郎満氏   上野の前司泰国     伊豆の前司頼定
   参河の前司頼氏     能登右近大夫仲時    安藝の前司親光
   佐渡の前司基綱     出羽の前司長村     下野の前司泰綱
   大蔵権の少輔景朝    出羽の前司行義     前の太宰の少貳為佐
   壱岐の守基政      伊賀の前司時家     壱岐の前司泰綱
   薩摩の前司祐長     梶原右衛門の尉景俊   彌次郎左衛門の尉親盛
   大須賀次郎左衛門の尉胤氏 武藤左衛門の尉景頼  伊藤八郎左衛門の尉祐光
   小野寺四郎左衛門の尉道時 善右衛門の尉康長   彌善太右衛門の尉康義
   狩野五郎左衛門の尉為廣 武藤次郎兵衛の尉頼泰  足立三郎右衛門の尉
   加地七郎右衛門の尉氏綱 常陸次郎兵衛の尉行雄  長雅楽左衛門の尉
   式部兵衛太郎光政    武石の三郎朝胤     梶原右衛門太郎景綱
   加藤左衛門三郎景経   鎌田の三郎義長
   宇都宮五郎左衛門の尉  壱岐次郎左衛門の尉(以上進奉不参)
 

1月2日 丙子 天晴
  椀飯、左馬の頭入道沙汰。御劔は武蔵の守朝直、御調度は尾張の前司時章、御行騰沓
  は和泉の前司行方。
   一の御馬 上総の三郎満氏      太平太郎左衛門の尉
   二の御馬 梶原右衛門太郎景綱    同三郎景茂
   三の御馬 筑前次郎左衛門の尉行頼  同三郎行實
   四の御馬 遠江の十郎頼連      同七郎泰連
   五の御馬 上野の三郎国氏      日記の三郎
 

1月3日 丁丑 陰
  椀飯(奥州御沙汰)。御劔は尾張の前司時章、御調度は掃部の助實時、御行騰沓は下
  野の前司泰綱。
   一の御馬 遠江の六郎教時      同七郎時基
   二の御馬 出雲五郎左衛門の尉宣時  同次郎時光
   三の御馬 波多野の小次郎定経    同兵衛次郎定康
   四の御馬 筑後の次郎太郎重家    同小次郎知家
   五の御馬 陸奥の彌四郎時茂     鹿島田左衛門の尉惟光
 

1月4日 戊寅
  御的の射手を撰ばる。而るに兼日領状の輩の内、薩摩の十郎・出羽の七郎・武田の五
  郎七郎・桑原の平内等は障りを申す。その外十一人、二五度これを射る。
   一番 渋谷の六郎     佐々宇左衛門三郎
   二番 佐貫の七郎     松岡の小三郎
   三番 諏方四郎兵衛の尉  海野の矢四郎
   四番 周枳兵衛四郎    勅使河原の小三郎
   五番 南條左衛門次郎   布施の三郎
   六番 秩父の彌五郎
 

1月7日 辛巳
  来十日将軍家鶴岡八幡宮に御参有るべきに依って、今日供奉人の散状を廻らさる。こ
  れ椀飯の間出仕の輩の中を以て、撰定せらるる所なりと。
 

1月10日 甲申 天晴
  西風烈し。卯の一点浜風早く町の辺焼亡す。名越山王堂に至るまで人家数百宇災す。
  日の出以後火止む。焼死者数十人と。彼の穢に依って、今日将軍家の御神拝延引すと。
 

1月14日 戊子
  御所に於いて御的始め有り。先度障りを申す射手等猶これを召し出さる。十人、二五
  度これを射る。
   一番 武田の五郎七郎政平   渋谷の六郎盛重
   二番 海野の矢四郎助氏    平嶋の彌五郎助経
   三番 布施の三郎行忠     周枳兵衛四郎頼泰
   四番 佐々宇左衛門三郎光高  佐貫の七郎廣胤
   五番 多賀谷の彌五郎重茂   横溝の七郎五郎忠光
 

1月22日 丙申 霽
  将軍家鶴岡八幡宮に御参り。
  行列
  前駈
   能登右近大夫仲時    安藝の前司親光     長井判官代泰茂
  御車
   後藤壱岐新左衛門の尉基頼 式部兵衛太郎光政   大須賀左衛門四郎
   小野寺新左衛門の尉行道 梶原右衛門太郎景綱   薩摩の十郎祐廣
   武藤次郎兵衛の尉頼泰  武藤の七郎兼頼     加藤左衛門三郎景経
   足立左衛門四郎     肥後の彌籐次
    已上直垂を着し帯劔、御車の左右に候す。
  御劔役人  前の右馬権の頭政村
  御調度役  武藤左衛門の尉景頼
  御後
   尾張の前司時章     武蔵の守朝直      陸奥掃部の助實時
   相模右近大夫将監時定  越後右馬の助時親    遠江の六郎教時
   陸奥の彌四郎時茂    中務権大輔家氏     足利の次郎兼氏
   上総の三郎通氏     佐渡の前司基綱     出羽の前司行義
   小山出羽の前司長村   上野の前司泰国     下野の前司泰綱
   和泉の前司行方     伊賀の前司時家     大隅の前司忠時
   壱岐の守基政      参河の前司頼氏     大須賀次郎左衛門の尉胤氏
   彌次郎左衛門の尉親盛  狩野五郎左衛門の尉為廣 伊藤八郎左衛門の尉祐光
   小野寺次郎左衛門の尉道時 壱岐次郎左衛門の尉家氏 長次右衛門の尉
   長雅楽左衛門の尉    善右衛門の尉康長    彌善太左衛門の尉康義
   和泉次郎左衛門の尉行章 紀伊次郎左衛門の尉為経 加地七郎左衛門の尉氏綱
 

1月26日 庚子 [百錬抄]
  大宮女院御着帯。
 

1月28日 壬寅 晴
  二所御精進始め。奉幣の御使は武蔵の守朝直。

[百錬抄]
  近衛前の関白(兼経)息(名字基平)仙洞に於いて御元服。即ち正五位下に叙し、禁
  色の事を仰せらる。