1254年 (建長6年 甲寅)
 
 

3月7日 庚辰 天晴
  相州能書を撰び、日来大般若経を書写せらる。今日鶴岡宮寺に於いて供養を遂げらる。
  導師は別当僧正と。即ち僧正参籠しこれを転読せしむと。また如意寺造営勧進の事、
  相州以下奉加せしめ給う。去る月二十八日評定に於いてその沙汰有りと。
 

3月12日 乙酉
  善波の太郎入道の子息又次郎小侍所衆に召し加えらる。別の仰せに依ってなり。景頼
  の奉行として奉行人に相触ると。
 

3月16日 己丑
  掃部の助實時の母儀卒去すと。
 

3月20日 癸巳
  小侍所の事、陸奥の彌四郎時茂奉行せしむべきの由これを仰せ下さる。陸奥掃部の助
  重服の程なり。
 

3月24日 丁酉 晴
  戌の刻二星合(金木相並ぶこと八寸の所。金は北、木は南)。
 

3月26日 己亥 霽
  金木変の事、廣資朝臣消するの由を申す。始め犯消し、雨の後遊犯す(二十五日)。
  家説に出現すと雖も消せりと為すと。傍輩等これに同ぜず。出羽の前司行義・和泉の
  前司行方等奉行としてこれを申す。
 

3月29日 壬寅 晴
  二星合の変御祈祷を行わるべきの由、政所に仰せ下さる。天地災変は前の大膳の亮為
  親朝臣、三万六千神は前の陰陽大允晴茂朝臣、属星は陰陽少允晴宗等なり。