1254年 (建長6年 甲寅)
 
 

4月4日 丙午 晴、巳の刻以後雨降る
  亥の刻殊なる御願に依って天地災変祭を行わる。為親朝臣これを奉仕す。御使は安藝
  右近大夫重親、祭文の草は前の大内記茂範朝臣、清書は厳恵法印なり。甚雨の日祭を
  行わるる事然るべからざるの由、申せしむの輩有りと雖も、当院御在位の時、寛元三
  年三月北遊御祭、良光朝臣奉仕するの日、甚雨と雖も沙汰有り。これを遂行せらると。
 

4月18日 庚申
  聖福寺鎮守諸神の神殿上棟。所謂、神験・武内・平野・稲荷・住吉・鹿嶋・諏訪・伊
  豆・箱根・三嶋・富士・夷社等と。これ惣て関東長久、別して相州両賢息の息災延命
  の為なり。仍って彼の兄弟両人の名字を以て、寺号に模せらると。去る十二日事始め
  有りと。相模の国大庭御厨の内その地を卜する所なり。若宮別当僧正大勧進と。
 

4月24日 丙寅 [百錬抄]
  大宮院今出川の第に御幸。御産所たるべきに依ってなり。
 

4月27日 己巳
  鎌倉中の雑人並びに非御家人の輩、奉行人の成敗に従わざる事、殊に誡めの沙汰有る
  べき事その法を定められ、政所に仰せらると。
 

4月29日 庚午
  評定。西国庄公の地頭等所務の事その沙汰有り。これ本地頭の所務は、往昔の由緒に
  依るべし。故に先規の例を追い、新儀の非法を止めしむべきなり。新地頭は率法に定
  めらるるの上は、その外全く濫吹を停止すべきなりてえり。この趣を存じ下知を加う
  べきの由、即ち五方引付に相触れらると。また唐船の事沙汰有り。その員数を定めら
  る。即ち今日これを施行せらる。
   唐船は、五艘の外これを置くべからず。速やかに破却せしむべし。
     建長六年四月二十九日     勧湛
                    實綱
                    寂阿
   筑前の前司殿
   大田民部大夫殿