1254年 (建長6年 甲寅)
 
 

6月3日 癸酉 晴
  故城の介入道願智の周関、墓塔婆を立て供養を遂ぐ。導師は左大臣法印厳恵、真言供
  養なり。布施は南庭十・馬一疋(銀鞍、厚総鞦)・銀劔(袋に入る)・単重一領。加
  布施は錦の被物一重・布衣。顕方卿これを取る。布施取り二十五人と。また相州の御
  亭に於いて法華八講を始行せらるるの衆、頼兼・審範・房源・兼位・頼乗・定圓・経
  幸・範快と。
 

6月5日 乙亥 晴
  相州の八講結願す。結縁の為奥州已下諸人群集す。
 

6月10日 庚辰
  同御第に於いて御祈祷等有りと。
 

6月15日 乙酉 霽
  今日前の武州禅室十三年の忌景を迎え、彼の墳墓青船御塔を供養せらる。導師は信濃
  僧正道禅、真言供養なり。請僧の中、中納言律師定圓(光俊朝臣の子)・備中已講経
  幸・蔵人阿闍梨長信等これに在り。この御追福の為八講を行う。京都より態と招請せ
  らるる所なり。相州御聴聞。御仏事已後、相州山内の御亭に帰らしめ給うの処、鎌倉
  中騒動す。路次往返の輩多く以て兵具を帯す。仍って則ち鎌倉の御亭に渡御するなり。
 

6月16日 丙戌
  鎌倉中物騒の間、昨夕より諸人御所中に群参す。皆これを着到せしめ披閲す。相州御
  覧と。所謂、
   遠江の前司       陸奥掃部の助      同太郎
   相模式部大夫      遠江の六郎       陸奥の六郎
   同七郎         備前の三郎       上総の三郎
   新田参河の前司     後藤壱岐の前司     和泉の前司
   同次郎左衛門の尉    嶋津周防の前司     安藝の前司
   小山の七郎       下野の七郎       遠江六郎左衛門の尉
   城の次郎        同三郎         阿曽沼の小次郎
   信濃の四郎       大曽彌次郎左衛門の尉  隠岐三郎左衛門の尉
   宇都宮五郎左衛門の尉  武藤左衛門の尉     同右近将監
   完戸次郎左衛門の尉   和泉五郎左衛門の尉   善右衛門の尉
   善太右衛門の尉     同五郎左衛門の尉    善六郎兵衛の尉
   肥後次郎左衛門の尉   渋谷次郎左衛門の尉   小野寺四郎左衛門の尉
   同八郎左衛門の尉    山内新左衛門の尉    同太郎左衛門の尉
   山内籐内左衛門の尉   進三郎左衛門の尉    常陸太郎左衛門の尉
   田中右衛門の尉     肥後次郎左衛門の尉   同四郎兵衛の尉
   紀伊次郎左衛門の尉   足立太郎左衛門の尉   同三郎
   足立左衛門三郎     和泉七郎左衛門の尉   池上籐左衛門の尉
   眞壁の平六       薩摩の七郎       狩野五郎左衛門の尉
   同四郎         狩野帯刀左衛門の尉   中山左衛門の尉
   長内左衛門の尉     加地七郎右衛門の尉   大泉の九郎
   鎌田兵衛三郎      同次郎兵衛の尉     同図書左衛門の尉
   遠藤右衛門の尉     宇間右衛門次郎
  今夕月蝕。左大臣法印厳恵御祈りを修す。陰雲の気有りと雖も度々出現すと。
 

6月23日 癸巳 晴
  鶴岡八幡宮に於いて最勝王経講を行わる。壇主は別当法印隆弁。相州御結縁の為西経
  所に入御す。講衆十人、三位法印頼兼・弁法印審範・宮内卿法印房玄・宮内卿律師親
  遍・三位律師兼伊・治部卿律師頼乗・中納言律師定圓・備中已講経幸・蔵人阿闍梨長
  信・侍従阿闍梨等なり。
 

6月25日 乙未 天晴
  了行法印京都に造り置く所の持仏堂並びに宿所等、如意寺営作に寄進する所なり。今
  日評定有り。これを仰せ出さると。清左衛門の尉満定奉行たりと。