1254年 (建長6年 甲寅)
 
 

10月2日 辛未
  西国の堺相論の事その沙汰有り。一向に本所御成敗たるべきの間訴訟有りと雖も、召
  し決すに及ばず。その中一向関東御領の事は、尤もその沙汰有るべきの由、六波羅に
  仰せ遣わさるる所なり。
 

10月4日 癸酉 快晴 戌の刻俄に甚雨、雷鳴霰相交る
  暁更また雷鳴数反、耳を驚かすものなり。
 

10月6日 乙亥 晴
  寅の刻相州の室姫君を平産す。加持は若宮別当(隆弁)、験者は清尊僧都なり。奥州
  の女房・松下禅尼・相州等群集す。安東左衛門の尉光成の奉行として禄物等有り。銀
  劔・五衣・馬(鞍を置く)。万年九郎兵衛の尉以下の祇候人等所役に随うと。また奥
  州験者の禄等を送らる。隅田次郎左衛門の尉その使者たりと。
 

10月10日 己卯
  鎌倉中保々奉行の條々の事、殊に緩怠の儀有るべからざるの旨これを定めらる。また
  政所下部・侍所小舎人等、鎌倉中の騎馬を止むべき事、同じく仰せ出さると。次いで
  押買以下の事停止すべき事、万年九郎兵衛の尉に仰せらると。後藤壱岐の前司基政・
  小野澤左近大夫入道光蓮等奉行たり。
 

10月12日 辛巳
  公家より仰せ下さるる六波羅検断の事その沙汰有り。今日御教書を遣わさる。その状
  に云く、
    武士を所々に差し遣わさるる事
   御成敗の後、御下知を用いず、狼藉を致すに於いては、子細に及ばず。未断の時、
   是非無く差し遣わされば、尤も子細を申し上げ、重ねて仰せらるべしてえり。また
   人倫売買の事、延應の宣下状を守り、一向停止すべきの由と。
 

10月17日 丙戌
  雑物等高直の聞こえ有るに依ってその法を定められ、今日施行せらるる所なり。
    炭・薪・萱・藁・糠の事
   高直法に過ぎるの間、諸人の煩いたるに依って、先日直を定め下さるると雖も、自
   今以後に於いてはその儀有るべからず。元の如く交易を免ぜらるべし。但し押買並
   びに迎買に至りては停止せしむべきなり。この旨を以て相模の国の然る如きの物交
   易所に相触れらるべきなり。てえれば、仰せに依って執達件の如し。
     建長六年十月十七日      相模の守
                    陸奥の守
   筑前の前司殿