1260年 (正元2年、4月13日 改元 文應元年 庚申)
 
 

4月1日 戊戌
  将軍家御吉時已後、入道陸奥の守亭に入御有るべきに依って、供奉人の事その沙汰有
  り。例の如く惣人数の記を召し、御点を下さると。その記に載せらるると雖も、今度
  御点に漏れる人々、
   遠江右馬の助    越後右馬の助    駿河の四郎   同五郎
   武蔵の五郎     同八郎       那波刑部少輔  上総の介
   周防の守      梶原上野の前司   伊賀の前司   甲斐の守
   長井判官代     城の彌九郎     後藤壱岐新左衛門の尉
   大隅修理の亮    筑前の三郎     同四郎     和泉六郎左衛門の尉
   同七郎左衛門の尉  伊勢三郎左衛門の尉 信濃判官次郎左衛門の尉
   式部次郎左衛門の尉 武藤右近将監    伊賀式部八郎左衛門の尉
   小野寺新左衛門の尉 伊東次郎左衛門の尉 土肥の四郎  天野肥後新左衛門の尉
   薩摩九郎左衛門の尉 同十郎左衛門の尉  大泉の九郎  後藤次郎左衛門の尉
   相馬五郎左衛門の尉 隠岐三郎左衛門の尉 平賀三郎左衛門の尉
   狩野五郎左衛門の尉 同四郎左衛門の尉  
   筑前三郎左衛門の尉(元より故障の事有り)
   式部太郎左衛門の尉(服暇日数相残り候の由候なり。仍って沙汰有り。憚るべきの
             由仰せ出さる)
   鎌田三郎左衛門の尉(御点無きと雖も、式部太郎左衛門の尉の替わりとして供奉す
             べきの由、追って仰せ下さる)
  追加
   信濃の前司     駿河右近大夫    駿河の次郎
 

4月2日 己亥
  御出の事明日なり。而るに式部太郎左衛門の尉の外舅若狭の国に於いて他界の事、違
  期の後遠聞に達するの間、日数を勘じ、禁忌の残日幾ばくならざるの処、この御出の
  事有り。仍って始めは仰せらるると雖も憚り有るべきの旨、今旦沙汰有り。鶴岡別当
  に問われ、憚るべからざるの由を申すの間、召し具せらるべしてえり。次いで鎌田三
  郎左衛門の尉を以て光政の替わりたるべきの由仰せらるると雖も、本人出仕の上は、
  子細に及ばずと。
 

4月3日 庚子 霽
  入道陸奥の守亭に入御す。御息所御同車。
  供奉人(布衣)
   土御門中納言顕方卿   花山院中納言長雅卿   二條三位教定卿
   中御門少将宗世朝臣   前の兵衛の佐忠時朝臣  二條少将雅有朝臣
   武蔵の前司朝直(御劔を役す) 遠江の前司時直  越後の守實時
   刑部少輔教時      越前の前司時廣     弾正少弼業時
   左近大夫将監公時    左近大夫将監時連    新相模の三郎時村
   相模の三郎時利     越後の四郎顕時     遠江の七郎時遠
   和泉の前司行方     秋田城の介泰盛     宮内権大輔時秀
   中務権の少輔守教    出羽の前司長村     壱岐の前司基政
   木工権の頭親家     参河の前司頼氏     太宰の少貳景頼
   縫殿の頭師連      対馬の前司氏信     日向の前司祐泰
   城四郎左衛門の尉時盛  同六郎顕盛       武藤左衛門の尉頼泰
   下野四郎左衛門の尉景綱 式部太郎左衛門の尉光政 常陸次郎左衛門の尉行清
   出羽七郎左衛門の尉行頼 信濃次郎左衛門の尉時清 周防五郎左衛門の尉忠景
   上野三郎左衛門の尉義長 遠江十郎左衛門の尉頼連 伊勢次郎左衛門の尉行経
   大曽彌太郎左衛門の尉長頼 小野寺四郎左衛門の尉道時 薩摩七郎左衛門の尉祐能
   加藤左衛門の尉景経   鎌田三郎左衛門の尉義長 鎌田次郎左衛門の尉行俊
  相州・武州・前の尾州(供奉の散状に載すと雖も、所役有りと称し、路次に候せず)
  ・相模の太郎殿・同四郎等、予め御所に参候せらる。兼ねて御衣架等を出居に置かる。
  紅の御衣一具・御衣・指貫・小袖十具・七御衣一具(生御単)・御小袿・紅の御袴・
  御小袖十具これを懸く。御盃酒の後御引出物を奉る。御劔は尾張の前司時章、砂金は
  越後の守實時、南廷は秋田城の介泰盛。
   一の御馬 新相模の三郎時村  式部太郎左衛門の尉
   二の御馬 武蔵の五郎時忠   浅羽左衛門次郎
   三の御馬 相模の太郎殿    波多野出雲次郎左衛門の尉
  御息所の御方は風流(蓬莱を造る)を進す。女房中は絹百疋、公卿は劔、殿上人は馬、
  五六位は沓・行騰なり。
 

4月6日 癸卯 晴
  去年冬の比より時行流布するの間、祈祷を致すべきの由、諸寺に仰せらると。
 

4月12日 己酉 [続史愚抄]
  今暁(子丑の刻)万里小路殿焼亡。放火と。
 

4月13日 庚戌 [続史愚抄]
  改元定めなり。正元を改め文應と為す。代始に依ってなり。文應号す文章博士在章こ
  れを撰ぶ。奉行蔵人頭宮内卿資平朝臣。
 

4月17日 甲寅 晴
  六波羅の飛脚参着す。申して云く、去る十二日丑の刻院の御所焼失すと。また山徒血
  を以て神輿を塗り奉るの由、同じく注進する所なり。
 

4月18日 乙卯 晴
  小台所暫く恪勤の侍五人着到せしむべきの由と。工藤三郎右衛門の尉光泰・平岡左衛
  門の尉實俊等これを奉行す。和泉の前司行方・武藤少卿景頼仰せを伝うに依ってなり。
  恪勤
   村岡の籐五太郎  同籐四郎  村岡の弥五郎  亀谷の源次郎  入野の平太
  今日改元の詔書到来す。去る十三日正元二年を改め文應元年と為す。文章博士在章撰
  び進すと。御即位に依ってなり。
 

4月19日 丙辰 陰
  武藤少卿景頼の奉行として、御祈祷を始行せらるべきの由その沙汰有るの処、八専憚
  り有るの由、陰陽道勘じ申すに依って、これを閣かると。
 

4月22日 己未 晴
  政所に於いて改元の吉書を行わる。また御祈祷の事、陰陽道子細を申すと雖も、殊に
  急ぎ思し食され、重ねて評定を経られ、今日始行す。松殿法印・左大臣法印等これを
  奉仕す。今日将軍家御悩の間、戌の刻に及び御所南庭に於いて千手供を修せらる。次
  いで不断の千手陀羅尼を始行す。若宮別当僧正(隆弁)、八口の伴僧を率いこれを奉
  仕す。
 

4月24日 辛酉
  御悩の事復本せしめ御う。御膳を聞こし食すと。
 

4月26日 癸亥
  将軍家御悩の事、去る夜女房左衛門の督の局夢想有り。一人の僧告げ申して云く、厳
  重の御祈りに依って、病幕中に入るべからずと。仍って今朝彼の局夢の事を語り申す
  の間、右京権大夫茂範朝臣に尋ねらるるの処、将軍家の御居所は幕府と称し、法験炳
  焉たるの由これを申す。
 

4月29日 丙寅
  丑の刻鎌倉中大焼亡。長楽寺前より亀谷の人屋に至ると。
 

4月30日 丁卯 天晴
  今日の評議、負物の事輙く沙汰に及ばざるの趣定め置かるると雖も、オウ弱の輩歎き
  申すの旨聞こし食し及ばるるに依って、先々の如くその沙汰有るべしと。次いで訴訟
  の事、叙用せざること三箇度たらば、所帯を注進すべきの旨、御教書を成し下すべし
  と。