1261年 (文應2年、2月20日 改元 弘長元年 辛酉)
 
 

7月2日 壬戌
  放生会の所役辞退の輩の事、行頼・景頼等これを執り申すに就いて、その沙汰有り。
  随兵
   駿河の五郎  三浦の介六郎左衛門の尉
    各々流鏑馬を勤めるの間、両役難治の由これを申す。
   城の九郎
    城の介分たるに依って、流鏑馬射手の由申す。
   阿曽沼の小次郎
    落馬の由申す。
  以前の両人に於いては自身射手に非ざれば、恩許有るべからず。早く元の散状の如く
  随兵たるべし。両役の事、傍例更に御免無してえり。次いで長景に至りては、射手た
  るの上は免ぜらるべしてえり。次いで光綱は、落馬に依り甲冑を着す事難治たらば、
  布衣を着し供奉せしむべしてえり。各々この旨を仰せらる。實俊これを奉行す。
 

7月3日 癸亥 天晴
  御所に於いて五尊合行法を修せらる。若宮の別当僧正これを奉仕す。伴僧八口と。こ
  れ聊か御悩有るに依ってなり。
 

7月5日 乙丑 [続史愚抄]
  今夜、亀山殿(仙居)御車寄せ・御念誦堂・随身所・中門廊等火す。
 

7月9日 己巳
  放生会の随兵差し定めらるるの中、江戸の七郎太郎は、老と病と計会し、鎧を着け難
  きの由これを申すに依って、恩許有り。和泉六郎左衛門の尉は、妊婦昨日(八日)嬰
  児死すの由これを申す。勿論と。景頼奉行たりと。
 

7月10日 庚午 天晴
  五尊御修法鎮願すと。また今夕より別の御祈りを修せらるべきに依って、左大臣法印
  の壇所として、御所近辺に於いて人々の宿所を点ぜらる。行方仰せを承り、平岡左衛
  門の尉・工藤三郎右衛門の尉等に相触れるの間、両人その所を点じ進すと。
 

7月11日 辛未
  明日山内殿に入御有るべきに依って、供奉人を催すべきの由仰せ出さると。
 

7月12日 壬申 雨降る
  将軍家(御騎馬)最明寺の第に入御す。弓・鞠・競馬・相撲等の勝負を覧る。また管
  弦・詠歌以下御遊宴等有りと。
  供奉人
  騎馬
   足利大夫判官      越前の前司       弾正少弼
   尾張左近大夫      相模の三郎       遠江の七郎
   武蔵の五郎       秋田城の介       宮内権大輔
   後藤壱岐の前司     武藤少卿        式部太郎左衛門の尉
   城の六郎        信濃左衛門の尉     薩摩七郎左衛門の尉
  歩行
   美作兵衛蔵人      城の九郎        和泉三郎左衛門の尉
   出羽七郎左衛門の尉   武藤左衛門の尉     周防五郎左衛門の尉
   遠江十郎左衛門の尉   上総太郎左衛門の尉   隠岐三郎左衛門の尉
   同四郎兵衛の尉     佐々木壱岐三郎左衛門の尉 信濃判官次郎左衛門の尉
   土肥四郎左衛門の尉   甲斐三郎左衛門の尉   肥後四郎左衛門の尉
   鎌田次郎左衛門の尉   武石新左衛門の尉    大泉の九郎
  中御所の御方
  騎馬
   刑部少輔        陸奥左近大夫将監    武蔵左近大夫将監
   遠江右馬の助      民部権大輔       相模の七郎
   和泉の前司       木工権の頭       佐々木壱岐の前司
   新田参河の前司     城四郎左衛門の尉    常陸次郎左衛門の尉
  歩行
   (同十三日還御の時騎馬)大隅修理の亮      城五郎左衛門の尉
   同十郎         周防四郎左衛門の尉   上野太郎左衛門の尉
   伊勢次郎左衛門の尉   大曽彌太郎左衛門の尉  鎌田図書左衛門の尉
   小野澤の次郎
 

7月13日 癸酉 天晴
  晩頭将軍家山内より還御す。今日工藤三郎右衛門の尉光泰故障有るに依って、放生会
  供奉人の散状等の記、一向平岡左衛門の尉實俊に付けらると。また中御所の御方今夕
  より護身を始めらるべきに依って、御験者休所として、御所近辺に於いて人々の宿所
  を点ぜらる。向後巡役たるべきの由これを仰せ下さる。行方奉行たりと。
  宿所を点ぜらるべき人々
   花山院中納言(御免) 尾張の前司    上総の前司    秋田城の介
   出羽入道       常陸入道(御免) 後藤壱岐の前司  和泉の前司
   筑前入道       新田参河の前司(重役の間御免)   木工権の頭
   図書の頭(御免)   薩摩七郎左衛門の尉(同) 周防五郎左衛門の尉(同)
 

7月14日 甲戌 天陰
  月蝕現れず。
 

7月17日 丁丑 霽
  京都の使者参着す。申して云く、去る七日亀山仙洞の御車宿焼亡す。失火と。諸人群
  参し打ち鎖すの間他所に及ばずと。
 

7月18日 戊寅 霽
  三位権僧正頼兼入滅す(年七十七)。大納言師頼卿の孫、證遍僧都の眞弟子、公胤僧
  正の入室受法。覺朝僧正に対し灌頂。顕密の兼学・公家の證義、上皇熊野御幸の御導
  師(関東より召し上げらる)。
   嘉禎元年十二月十八日権大僧都に転ず(元少僧都)。四年五月二十三日法印に叙す
   (公清労)。建長六年十二月三十日権僧正に任ず。八年月日園城寺の別当に補す(時
   に法性房と号す)。
 

7月22日 壬午 天晴
  政所の門並びに廰屋等新造の事その沙汰有り。今日関東の近古詠撰進すべきの由、壱
  岐の前司基政に仰せらる。
 

7月29日 己丑
  武蔵の前司・筑前入道行善・常陸入道行日等、放生会の時廻廊に参候すべきの由、相
  触るべきの旨仰せ下さると。随兵の中、在国の輩四人辞退の請文を進す。昨日小侍所
  より武藤少卿景頼に付けるの間、今日披露す。この外の條々その沙汰有りと。
   足立太郎左衛門の尉(当時所労、減を得らば参るべきの由申す。六月二十一日請文)
   淡路又四郎左衛門の尉(持病を指し得らば参るべきの由申す。七月六日請文)
   相馬孫五郎左衛門の尉(所労を現すの由申す。七月十日請文)
   佐竹常陸の次郎(所労有るの間、灸すと雖も未だ本復せざるの由申す。
           七月十二日請文)
    以上聞こし食されをはんぬるの由と。
  在鎌倉の人々中障りを申す
   尾張の前司       越前の前司      治部大輔
   周防の守        上総の前司      佐渡五郎左衛門の尉
   周防三郎左衛門の尉   宇都宮五郎左衛門の尉 出羽三郎左衛門の尉
    以上労の由申す。
   畠山上野の前司(当時所労、減を得らば参るべきの由申す)
  官人の事
   足利大夫判官家氏 隠岐大夫判官行氏 出羽大夫判官行有 上野大夫判官廣綱
  以上三人催促せらるるの処、行有・行氏はすでに辞職しをはんぬ。在国の恩許を蒙る
  の由請文を捧ぐ。廣綱は領状を申す。家氏は当時在国するの間、催せらるべきや否や。
  去る二十七日相州禅室の御所に於いて沙汰有り。評定に申すべきの由治定す。仍って
  今日實俊・光泰等披露するの処、早く相催すべしてえり。則ち御教書を成し下さると。
 

7月30日 庚寅
  鎌田次郎左衛門の尉・善六郎左衛門の尉等、木工権の頭親家に属き放生会の供奉を望
  み申す。親家内々御気色を取り、小侍所に触れ申すの間、披露せしむべきに依って景
  頼に付すと。