1261年 (文應2年、2月20日 改元 弘長元年 辛酉)
 
 

6月1日 辛卯
  奥州禅門俄に病脳す。彼の辺の諸人群集す。今日廁に於いて怪異を見らるるの後、心
  神惘然すと。
 

6月3日 癸巳 雨降る
  申の刻御所北対の西端と台所東の間と、海黒鳥(海鴨と。その名一に非ず)飛落す。
  和泉の前司行方の郎従等これを獲る。即ち海辺に放せらる。
 

6月6日 丙申 霽
  和泉の前司の奉行として、昨の鳥の怪の事、御所に於いて御占いを行わる。晴茂朝臣
  已下病事・火事の由勘じ申す。この鳥、貞應元年四月死して前濱・腰越等に寄る。同
  年八月彗星出現すと。
 

6月7日 丁酉 天晴
  御所に於いて百恠祭三座を行わる。為親・職宗・茂氏等これを奉仕す。政所沙汰なり。
 

6月10日 庚子 天晴
  将軍家変異等の事に依って御物忌有り。但し堅固の儀に非ず。外宿人参入するなり。
  評議有りて此の如しと。
 

6月12日 壬寅
  来八月の放生会御参宮供奉人の事、小侍所より例に任せ交名を注す。御点を申し下さ
  んが為、武藤少卿景頼に付けらると。
 

6月16日 丙午 天晴
  奥州禅門違例の事、去る朔日以後毎日晩景発動す。瘧病の如し。仍って同十一日より
  若宮僧正を屈請し加持せしむるの処、来二十二日減気に及ぶべきの由、今夜僧正これ
  を申さる。数輩の賢息並びに縁者・祇候人等これを聞き、面々奇異の思いを成すと。
 

6月17日 丁未
  供奉人の事御点を下さる。またこの外、
  随兵
   相模の三郎
  直垂
   城の十郎  佐々木壱岐四郎左衛門の尉  筑前次郎左衛門の尉
  以前四人の事、御前より直に此の如く注せらると。
 

6月18日 戊申 霽
  広御所の修理に依って、北の小庭に於いて土公祭を行わる。為親朝臣これを奉仕す。
  太宰権の少貳景頼これを奉行す。波多野出雲次郎左衛門の尉時光御使たり。
 

6月21日 辛亥
  足立太郎左衛門の尉放生会の随兵たるべきの由仰せらるるの処、当時所労難治。減を
  得らば参るべきの由請文を進すと。
 

6月22日 壬子 霽
  未の刻諏方兵衛入道蓮佛・平左衛門の尉盛時等、亀谷石切谷の辺に於いて、故駿河の
  前司義村の子息大夫律師良賢を生虜る。これ謀叛の企て有るに依ってなり。駿河の八
  郎入道(式部大夫家村の子)並びに野本の尼(若狭の前司泰村の娘)已下、その張本
  数輩と。これに依って鎌倉中騒動す。夜に入り近国の御家人等馳参すと。奥州禅門の
  病脳今夕平愈す。心神復本すと。
 

6月23日 癸丑 霽
  相模の禅師厳齊入滅しをはんぬ。
 

6月25日 乙卯
  良賢の事、六波羅に仰せ遣わさる。都鄙の騒動を鎮めんが為なり。その御教書に云く、
   大夫律師良賢(若狭の前司泰村舎弟)謀叛の企て有るに依って、その身を召し取ら
   れをはんぬ。指せる與力の輩無く候なり。この事に依り、在京並びに西国の御家人
   等参向せしめば、先々の如く止め置かるべきなり。随って殊なる事無きの由、面々
   に相触れらるべしてえり。仰せに依って執達件の如し。
     弘長元年六月二十五日     武蔵の守
                    相模の守
        陸奥左近大夫将監殿
  今日奥州禅門馬並びに南廷五・劔等を若宮僧正坊に遣わさる。また室家生衣二・南廷
  三・絹三十疋。武州劔・南廷二等同じくこれを遣わさる。所労の平減に依ってなり。
 

6月27日 丁巳
  新相模の三郎時村放生会の随兵を辞す。これ去る二十三日兄阿闍梨入滅し、軽服の故
  なり。これに依って小侍所司平岡左衛門の尉實俊、和泉の前司行方に相触れるの間、
  沙汰有り。兄弟の軽服日数五十日たり。八月十五日は猶日数内なり。憚り有るべきや
  否や、宮寺に尋ね問うべし。てえれば、行方先規を鶴岡の別当僧正隆弁に相尋ねるの
  処、随兵に於いては廟庭の外に候すの間、先例憚らざるの由報じ申す。仍って殊なる
  寄せ無し。
 

6月29日 己未
  阿曽沼の小次郎落馬に依って、放生会の随兵を辞し申すと。
 

6月30日 庚申 霽
  午の刻鳶飛び入る。御所台所東蔀の間より中障子を亘り、北の遣戸に出る。これに依
  って景頼の奉行として御占いを行わるるの処、晴茂・職宗等御病事の由これを申す。