1263年 (弘長3年 癸亥)
 
 

4月1日 庚戌
  二所御参詣供奉人の事、先度進奉の散状を以てこれを催せらると。
 

4月3日 壬子
  後藤壱岐の前司二所の供奉障りを申すと。
 

4月7日 丙辰 天霽
  夜に入り窟堂の辺騒動す。但し則ち静謐す。これ群盗十余人地蔵堂に隠居するの間、
  夜行の輩等その場に行き向かい生虜るが故なり。
 

4月14日 癸亥
  二所御参詣供奉人の中子細を申すの輩の事、その沙汰有り。所謂、
   相模左近大夫将監申す、
    相州服暇の間、蝕穢の憚り無きに非ずか。この上は供奉如何。
   出羽八郎左衛門の尉申す、
    子細同前。
   近江三郎左衛門の尉申す、
    御点に依って進奉するの上は、供奉せしむべきの條勿論と雖も、垂翅諧わざるの
    間、打梨定めて憚り有るか。
  てえれば、以上小侍の注進を執り、武藤少卿景頼披露するの処、聞こし食されをはん
  ぬ。てえれば、相州・左親衛並びに出羽八郎左衛門の尉等は恩許有り。近江三郎左衛
  門の尉は供奉せしむべしてえり。また後藤壱岐の前司相構えて供奉せしむべきの由と。
 

4月16日 乙丑 天霽
  河野の四郎通行の子息九郎経通小侍の番帳に入ると。和泉の前司仰せを小侍に伝うと。
  東御方の小町の宿所上棟なり。但し仮棟と。
 

4月21日 庚午 天晴
  将軍家二所御精進始め。御浜出で。浴潮し御わんが為なり。御水干・御騎馬たるなり。
  月卿雲客また水干を着す。その外の供奉人等立烏帽子・直垂。還御の時は皆浄衣を着
  す。行列、
  御駕(歩行の御共有り)
  御後
   土御門大納言  近衛中将公敦朝臣  越前の前司    民部権大輔
   遠江右馬の助  越後の四郎     武蔵式部大夫   畠山上野の三郎
   駿河の五郎   中務権の少輔    佐々木壱岐の前司 女医博士長宣朝臣
   平岡左衛門の尉 陰陽少允晴弘    武蔵の守     相模の四郎
                      両人の後騎等相列なり雲霞の如し。
 

4月23日 壬申 天晴
  御浜出で一昨の如し。これ中の御潮なり。
 

4月24日 癸酉
  筑前入道の宿所を点ぜらる。これ来四月一日より御祈りの為、大阿闍梨松殿僧正の居
  所なり。
 

4月26日 乙亥 雨降る
  将軍家二所御進発。
  騎馬
   土御門大納言      近衛中将公敦朝臣    武蔵の守長時
   相模の四郎宗政 (御敷皮役)越前の前司時廣   遠江右馬の助清時
   同四郎政房       民部権大輔時隆     武蔵式部大夫朝房
   (御床子役黒)越後の四郎顕時          駿河の五郎通時
   中務権の少輔重教    武藤少卿景頼      佐々木壱岐の前司泰綱
   木工権の頭親家     後藤壱岐の前司基政   畠山上野の三郎国氏
   美作左衛門蔵人宗教   女医博士長宣朝臣    陰陽少允晴弘
  歩行
   伊賀四郎左衛門の尉景家 土肥四郎左衛門の尉實綱 上野三郎左衛門の尉重義
   隠岐四郎左衛門の尉行長 近江三郎左衛門の尉頼重 周防の七郎定賢
   足立左衛門五郎遠時   内藤肥後六郎左衛門の尉時景
   平賀三郎左衛門の尉惟時 小河木工権の頭時仲   小河左近将監