1263年 (弘長3年 癸亥)
 
 

3月10日 庚寅 天晴
  故右京兆(義時)御願の大倉薬師堂、日来修造を加え、今日供養を遂げらる(真言供
  養)。導師は遠江僧都公朝。
 

3月13日 癸巳
  武藤少卿奉書を小侍所別当に遣わして云く、二所の御精進、来月二十一日より始めら
  るべきなり。御共並びに参籠の人々、先度の如く御催促有り、注進せらるべし。且つ
  は鳥(合)食、今月二十日の比より憚り有るべし。兼日相触れらるべしと。
 

3月17日 丁酉
  最明寺禅室信濃の国深田郷を買得し給い、今日善光寺に寄附す。不断経衆・不断念仏
  衆等の粮料に宛て置かるる所なり。偏に来世の値遇を思し食すと。
   善光寺金堂不断経衆結番の事
     合(次第不同)
    定蓮房律師観西  理久房阿闍梨重實  蓮明房善西    大貳阿闍梨覺玄
    理乗房實圓    厳光房澄範     厳蓮房聖尊    覺地房有慈
    金蓮房勝賀    河内公俊栄     蓮浄房覺隆    権別当俊範
   右番帳の旨を守り勤仕せしむべし。但し彼の不断経用途は、水田陸町、当国水内郡
   深田郷の内に在り。これ則ち不断経衆の免田なり。然れば彼の免田を十二分に校量
   し、人別五段を十二人に宛てをはんぬ。敢えて違失すべからず。次いで或いは所職
   を相譲り、或いは闕分有るの時、譲得の證文有りと雖も、更に競望の仁有りと雖も、
   宜しく衆議に依って器量を補し、相伝に任すべからず。有縁を憚るべからず。これ
   故吹嘘の初め、その器を撰定せば、職に補すの後その役を怠らず。但し器量は有智
   高才を論ぜず、精勤を退かざるを賞すべし。次いで過去帳を守り、彼の忌日晨朝毎
   に、一時念仏三昧を勤行し奉るべし。仍って結衆これ等の趣を守り、専ら誠心を調
   え、懈怠すべからざるの状件の如し。
     弘長三年三月十七日       紗彌蓮性(在判)

   善光寺金堂不断念仏衆結番の事
     合(次第不同)
    出雲公尊海    浄佛房良祐     少輔公幸源    法蔵房圓西
    唯観房唯観    観法房栄俊     式忍房幸證    尊明房琳尊
    讃岐公俊昌    豊後公幸源     美濃公尊覺    検校俊然
   右結番の旨を守り勤行せしむべし。彼の不断念仏用途は、水田陸町、当国水内郡深
   田郷の内に在り。これ則ち不断念仏衆の免田なり。然れば彼の免田を十二分に校量
   し、人別五段を十二人に宛てをはんぬ。敢えて違失すること勿れ。次いで或いは所
   職を譲り、或いは闕分有るの時、譲得の證文有りと雖も、競望の仁有りと雖も、宜
   しく衆議に依って器量を補し、相伝に任すべからず。有縁を憚るべからず。これ故
   吹嘘の初め、その器を撰定せば、職に補すの後その役を怠らず。但し器量は有智高
   才を論ぜず、精勤を退かざるを賞す。次いで過去帳を守り、彼の忌日役毎に、一時
   念仏三昧を勤行し奉るべし。仍って諸衆これ等の趣を守り、専ら誠心を調え、懈怠
   すべからざるの状件の如し。
     弘長三年三月十七日       紗彌蓮性(在判) ]
 

3月18日 戊戌 天晴
  亥の刻名越の辺焼亡す。山王堂その中に在り。失火と。
 

3月21日 甲辰 天霽、夜に入り雨降る
  今日東御方の里亭造作の沙汰有り。対馬の前司氏信惣奉行たり。