1263年 (弘長3年 癸亥)
 
 

6月2日 庚戌 天晴
  東御方の小町亭柱立て。去る四月十六日仮棟、今日梁棟を上げるなり。また壱岐の前
  司基政・丹波の守頼景在京の為上洛す。
 

6月13日 辛酉 晴
  駿河の六郎卒す。相州・左典厩等御軽服なり。
 

[6月17日 乙丑 陰
  昨日より冷気秋天の如し。諸人綿衣を纏う。]
 

6月23日 辛未
  将軍家御上洛の事その沙汰有り。課役を諸国に宛てらる。御教書の文章一同なり。西
  海の事は六波羅に仰せ遣わさると。御教書に云く、
   御上洛の間百姓等所役の事、段別百文・五町別官駄一疋・夫二人これを宛て行うべ
   し(畠に至りては二町を以て田一町に准ずべし)。この外民の煩いを成すべからず。
   但し逃散の輩有らば、在所に相触れその役を勤めしむべきの状、仰せに依って執達
   件の如し。
     弘長三年六月二十三日     武蔵の守
                    相模の守
        陸奥左近大夫将監殿
 

6月25日 癸酉 天晴
  巳の刻将軍家百首の御詠篇を終えらる。昨日未の刻これを始めらる。則ち御前に於い
  て清書す。掃部の助範元これに候す。
 

6月26日 甲戌
  来八月の放生会御参宮の供奉惣人数の記、御点を申し下さんが為、小侍所より和泉の
  前司行方に付けらると。越中判官頼業この中に載せらるるの処、病痾を称し帰国の暇
  を申すと。今日御所に於いて帝範の御談議有り。右京権大夫茂範朝臣・参河の前司教
  隆等これに候す。また近衛中将公敦朝臣・越前の前司時廣参候すと。
 

6月28日 丙子
  放生会御参宮供奉人の散状御点有り。左点は布衣、右は随兵、左点端は直垂着と。小
  侍に下さるるの間、光泰・實俊等これを廻らすと。
 

6月29日 丁丑 天晴
  小町御亭の門仮棟を上ぐ。
 

6月30日 戊寅 天霽
  去る二十五日の御詠、右大弁入道御前に於いてこれを拝見し合点し奉る。而るに去年
  一日百首の御歌に勝るの由、点者申すと雖も、これ賢慮に通ぜず。去年の御詠猶宜し
  きの由思し食さるると。