1263年 (弘長3年 癸亥)
 
 

7月5日 癸未 天霽
  将軍家今年中の御詠歌数首の中、三百六十首を抄出し清書せらる。これ合点の為入道
  民部卿為家卿に遣わさるべしと。今日和泉の前司行方の孫子卒去の事に依って、縫殿
  の頭師連御所中の雑事を奉行すべしと。
 

7月10日 戊子 小雨洒う
  御所の門(棟門)を立てらる。今日前浜に於いて風伯祭を行わる。前の大監物宣賢朝
  臣これを奉仕す。
 

7月13日 辛卯
  東御方小町の新造亭移徙と。今日、供奉人の條々その沙汰有り。その中越中判官時業
  所労の由申す。これ指せる煩いに非ず。然れども先日暇を申すの時、その実を知ろし
  食さず恩許有りと雖も、伺候に当たるの上は、故障然るべからざるの由沙汰有り。相
  催せらるるの処、すでに帰国すと。早く御教書を遣わすべきの由と。
  この外の人々、
  布衣
   足立三郎左衛門の尉(在国)
  随兵
   足利上総の三郎(所労服薬) 三浦の介      阿波四郎左衛門の尉
   城四郎左衛門の尉      隠岐四郎兵衛の尉  常陸修理の亮
   淡路四郎左衛門の尉(灸)  風早太郎左衛門の尉
    以上八人、所労の由を申す。
   駿河の五郎(服)      遠江十郎左衛門の尉(同)
    八月十五日に至るまで重服たるの由申す。
   小田左衛門の尉
    造鹿嶋社惣奉行なり。供奉限り有りと雖も、余社の事に就いて奔労すること彼の
    神事を緩がせにするに似たり。何様たるべきやの由なり。
   阿曽沼の小次郎
    落馬以後進退未だ合期せず。子息五郎を以て勤仕せしむ事、如何の由申す。
   伯耆四郎左衛門の尉
    所労難治なり。子息五郎清氏を以て勤仕せしむこと、如何の由申す。
   江戸の七郎太郎
    老と病と計会す。今に於いては着甲進退叶い難きの由申す。
   足立太郎左衛門の尉
    御上洛供奉・京都大番、両役の間一事恩許有らば、早く参勤すべきの由申す。
  直垂着
   佐々木対馬太郎左衛門の尉 同壱岐三郎左衛門の尉 平賀三郎左衛門の尉
    以上三人、憚り有るの由申す。
   佐々木対馬の四郎(労)  遠江五郎左衛門の尉
    労に依り灸を加うの上、鹿食の由申す。
   出羽七郎左衛門の尉    大須賀六郎左衛門の尉 
   信濃判官次郎左衛門の尉(労、鹿食)
    以上三人、鹿食の由申す。
   鎌田三郎左衛門の尉
    大番に勤仕し訖わり近曾帰参するの間、難治の由申す。
  官人
   佐渡大夫判官
    当時所労、もし少減を得らば推参すべきの由申す。
   信濃判官(服暇)
 

7月16日 甲午 陰
  右大弁入道眞観帰洛す。相州以下諸人餞送の儀有りと。
 

7月17日 乙未 陰
  日蝕正現せず。司天・宿曜道等相論有りと。
 

7月18日 丙申 霽
  将軍家帝範の御談議をはんぬ。
 

7月20日 戊戌
  越中判官放生会供奉の事、御教書を遣わさるるに依って、領状の請文を献ると。
 

7月23日 辛丑 晴
  将軍家五百首の御詠歌、前の右兵衛の督教定卿に付け、合点の為入道民部卿の許に遣
  わさる。範元これを清書す。
 

7月27日 乙巳
  放生会の随兵、今十人催加すべきの由仰せ下さると。
 

7月29日 丁未 雨降る
  将軍家の御歌、建長五年より正嘉元年分に至るまで修撰せらる。これを号すに初心愚
  草と。