1263年 (弘長3年 癸亥)
 
 

8月1日 戊申 天晴
  御所に於いて五首和歌の題を人々に下さる。二條少将雅有朝臣これを奉行す。
 

8月4日 辛亥
  放生会供奉人の中、鹿食憚り有るの由申す輩の事、厳制に違犯するの條然るべからざ
  るの間、殊に仰せ下さるるの処、各々陳謝有り。所謂、
   遠江五郎左衛門の尉
    鹿食禁制の事未だ承り及ばざるの上、所労を治さんが為服せしむの由申す。
      大須賀六郎左衛門の尉
    所労不快の間、鹿食然るべきの由医師申すに依って、忽ち御制事を忘れをはんぬ
    るの由申す。
   信濃次郎左衛門の尉
    去る月上旬の比、或る会合の砌に於いて、他物と取り違え、誤りて鹿を食うの由
    申す。
 

8月6日 癸丑 雨降る
  将軍家七首の歌を人々に勧めしめ御う。これ素暹法師卒去の後、御夢想の告げ有り。
  黄泉その苦有るかの由思し食し驚かるるに依って、滅罪の謀りを廻らされんが為、彼
  の懐紙の裡を以て経典を書写せらるべしと。御詠は左兵衛の尉行長の名字を用いらる。
  また広御所に於いて、臣範の御談議有り。弾正少弼・越前の前司・掃部の助範元等御
  前に候す。
 

8月7日 甲寅 天晴
  御所に於いて五十首の歌合有り。衆議判と。
 

8月8日 乙卯
  放生会供奉人等の事條々その沙汰有り。随兵先度進奉の中、河越の次郎経重障りを申
  す。また後日重ねて触れ仰せらるるの中、佐渡太郎左衛門の尉鹿食の由申すと。この
  外子細有り催促せらるる人々、
   尾張の前司         秋田城の介
    各々所労の由を申す
   陸奥左近大夫将監      伊勢次郎左衛門の尉
       各々憚り有るの由を申す
   常陸次郎左衛門の尉(服暇) 宮内権大輔
    所労不快に依って、鹿食の暇を給うの由申す
   足立三郎左衛門の尉(鹿食) 佐々木壱岐の前司
    身の暇を給い上洛の由申す
   新田参河の前司     小山出羽の前司     上野の前司
   宇都宮石見の前司    同六郎左衛門の尉    長門の前司
   筑前三郎左衛門の尉   和泉三郎左衛門の尉   小野寺四郎左衛門の尉
   田中右衛門の尉     伊豆太郎左衛門の尉   大見肥後次郎左衛門の尉
   和泉六郎左衛門の尉   鎌田図書左衛門の尉   周防四郎左衛門の尉
   鎌田次郎左衛門の尉
    以上十六人、在国
  その沙汰有り仰せ出さるる條々の事、
  布衣
   秋田城の介
    所労に於いては、初め散状を廻らさるるの比の事か。出仕に当たるの上は、早く
    催すべきか。
   鎌田図書左衛門の尉   同次郎左衛門の尉
    すでに京都より下向すと。早く催加すべしてえり。
  随兵
   阿曽沼の小次郎
    自身故障、子息をして勤仕せしむの條何事か有らんやてえり。
   上野太郎左衛門の尉
    軽服と。何事か早く相尋ぬべしてえり。
  直垂着
   鎌田三郎左衛門の尉
    先度故障の趣は、京都より下向するの間難治と。申状の趣太だ自由なり。早く重
    ねて相催すべしてえり。
   隠岐四郎左衛門の尉
    先度随兵に加うの処故障と。直垂着の散状に書き入れ、猶相催すべしてえり。
   信濃次郎左衛門の尉
    先度故障をはんぬ。随兵に催し具すべしてえり。
   対馬の四郎
    故障何事か。重ねて催加すべしてえり。
  追って相催す輩の事
  随兵
   城六郎左衛門の尉  加藤左衛門の尉
    各々進奉す。
   下野の四郎     長門三郎左衛門の尉
    各々所労の由請文に載せ言上す。
   小野寺新左衛門の尉
    遠江の国に在ると称し、留守より御教書を返上す。
  直垂着
   薩摩左衛門の尉   出羽の十郎    善太左衛門の尉
   山内三郎左衛門の尉 萩原右衛門の尉  長雅楽左衛門の尉
    以上六人進奉す。
   大須賀五郎左衛門の尉(所労の由申す)
 

8月9日 丙辰 天晴
  御歌合、衆議判。御連歌有り。今日左近大夫将監義政朝臣名越亭に移徙す。また将軍
  家御上洛の事その沙汰有り。来十月三日御進発必然の間、路次の供奉人以下の事これ
  を定めらる。その記、縫殿の頭師連御所に持参す。範元を御前に召し清書せらる。こ
  れ京都に進せられんが為なり。
  随兵
   相模の三郎時輔     武蔵の前司子息一人   越前の前司時廣
   中務権大輔教時     左近大夫将監時村    越後の四郎顕時
   左近大夫将監公時    右馬の助清時      足利上総の三郎満氏
   上総の介廣綱      梶原太郎左衛門の尉景綱 伊豆太郎左衛門の尉實保
   対馬の前司氏信     薩摩七郎左衛門の尉祐能 周防五郎左衛門の尉忠景
   常陸左衛門の尉行清   風早太郎左衛門の尉康常 三浦の介頼盛
   小田左衛門の尉時知   大多和左衛門の尉義清  色部右衛門の尉
   加地七郎左衛門の尉氏綱 和泉三郎左衛門の尉行章 遠江三郎左衛門の尉泰盛
   伊勢次郎左衛門の尉行経 出羽彌籐次左衛門の尉頼平 遠江十郎左衛門の尉頼連
   完戸壱岐次郎左衛門の尉家氏 武田の五郎三郎政直 阿曽沼の小次郎光綱
   足立太郎左衛門の尉直元 同三郎左衛門の尉元氏  河越の次郎経重
   長次郎左衛門の尉義連  狩野新左衛門の尉    加賀の前司行頼
   加藤左衛門の尉景経   下野四郎左衛門の尉景綱 海上の彌次郎胤景
   武石三郎左衛門の尉朝胤 土肥四郎左衛門の尉實綱 淡路又四郎左衛門の尉宗泰
   隠岐四郎兵衛の尉行長  常陸修理の亮      進三郎左衛門の尉宗長
   佐々木壱岐三郎左衛門の尉頼綱 善太郎左衛門の尉康定
   小野寺四郎左衛門の尉通時   出羽入道子息一人 和泉六郎左衛門の尉景村
   同七郎左衛門の尉景経  一宮次郎左衛門の尉康有 出羽六郎右衛門の尉景経
   肥後新左衛門の尉景茂  相馬孫五郎左衛門の尉胤村 田中右衛門の尉知継
   長江四郎左衛門の尉   石見次郎左衛門の尉   出羽の前司子息一人
   長門三郎左衛門の尉朝景 式部太郎左衛門の尉光政 中條出羽四郎左衛門の尉
   善五郎左衛門の尉康家  信濃次郎左衛門の尉行宗 周防四郎左衛門の尉泰朝
   平賀三郎左衛門の尉惟忠 小野寺小次郎左衛門の尉 内藤肥後六郎左衛門の尉
   武藤左衛門の尉頼泰   内藤豊後三郎左衛門の尉 大見肥後四郎左衛門の尉行定
   武田の六郎子息一人   小笠原の六郎子息一人  土屋新三郎左衛門の尉
   狩野四郎左衛門の尉景茂 伊賀筑後四郎左衛門の尉景家 長江の七郎
   足立籐内左衛門三郎   天野肥後三郎左衛門の尉 遠山の六郎
   完戸壱岐左衛門太郎   氏家左衛門の尉     善太左衛門の尉
   近江三郎左衛門の尉頼重 阿波入道子息一人    伊賀次郎左衛門の尉光房
   平左衛門入道子息一人
  水干を着すべき人々
   相州      武州         武蔵の前司朝直  尾張の前司時章
   越後の守實時  足利大夫判官家氏   弾正少弼業時   武藤少卿景頼
   長門の前司時朝 佐々木壱岐の前司泰綱 佐渡大夫判官基隆 越中判官時業
   信濃判官時清  和泉の前司行方
  御路次の間方々奉行人の事
   一、御出奉行  和泉の前司行方 武藤少卿景頼
   一、御物具   対馬の前司氏信 武藤少卿    土肥四郎左衛門の尉實綱
      一、御中持   木工権の頭親家 進三郎左衛門の尉宗長 長次郎左衛門の尉義連
   一、御宿の事  和泉の前司行方 備中の守行有  式部太郎左衛門の尉光政
   一、御厩    薩摩七郎左衛門の尉祐能
   一、御笠    加藤左衛門の尉景経 狩野四郎左衛門の尉景茂
   一、御床子御敷皮 信濃次郎左衛門の尉行経
   一、掃部所    伊豆太郎左衛門の尉實保
   一、護持僧
   一、医陰道 
      以上の両條、和泉の前司
   一、進物所    壱岐三郎左衛門の尉頼綱
   一、釜殿     梶原太郎左衛門の尉景綱
   一、砂金並びに紫染衣 和泉の前司  式部太郎左衛門の尉光政
   一、紺染衣    武藤少卿  伊勢次郎左衛門の尉行経
   一、恪勤侍    小野寺左近大夫入道光連
   一、御中間    信濃判官時清
   一、御力者    佐渡大夫判官基隆
   一、朝夕雑色   小侍
   一、小舎人    侍所
   一、国の雑色   加賀の前司行頼
   一、御乗替の事  長門の前司時朝 越中判官時業 小野寺四郎左衛門の尉通時
            和泉六郎左衛門の尉景村    善五郎左衛門の尉康家
            武石三郎左衛門の尉朝胤    阿曽沼の小次郎光綱
 

8月10日 丁巳
  御上洛の間進物所以下用途の事、今日その沙汰有り。来十月御上洛以前京都に進済す
  べきの旨、畿内・西国等に仰せ遣わさると。その御教書守護人等に下さると。
 

8月11日 戊午 雨降る。申の刻以後霽に属く
  廂御所に於いて御連歌五十句。掃部の助範元(五句)執筆たり。前の右兵衛の督教定
  (五句、発音)・中務権少輔重教朝臣(一句)・侍従基長(三句)・遠江の前司時直(五
  句)・右馬の助清時(四句)・河内の前司親行(七句)・武蔵の五郎時忠(四句)・加
  賀入道親顕(一句)・左衛門少尉行佐(二句)・左衛門の尉行俊(一句)・左衛門の尉
  忠景(四句)・御句(八句)と。
 

8月12日 己未 小雨常に洒う
  去る夜の御連歌、大夫判官基隆仰せを奉り合点奉ると。
 

8月13日 庚申
  放生会供奉人進奉の散状、取り整えられ沙汰しをはんぬ。その中故障有るに依って重
  ねて催促せらるるの輩、或いは進奉、或いは猶子細を申す。故障に於いては、以前以
  後皆恩許すと。所謂、
  随兵
   信濃次郎左衛門の尉 先度直垂人数たるの時辞退す。今随兵の催促進奉すと。
   上野太郎左衛門の尉 祖母他界す。日数幾ばくならざるの由申す。
  直垂着
   対馬の四郎 故障同前。
  官人
   足利大夫判官 進奉す。
   信濃判官   軽服日数すでに馳せ過ぎ、進奉す。
   越中判官   先度領状の請文を献りながら、猶所労の由を申す。
 

8月14日 辛酉 朝より天陰雨降る。雷鳴数声
  則ち南風烈しく、雨脚いよいよ甚だし。午の刻大風樹を抜き屋を発す。大略全き所無
  し。御所の西侍顛倒す。梁棟桁等これを吹き抜く。また由比浜着岸の船数十艘破損・
  漂没す。今夕御息所供奉人の事、進奉の惣人数の中、御点を下さると。これ放生会御
  参宮有るべきに依ってなり。子の刻、前の太宰の少貳正五位下藤原朝臣為佐法師(法
  名蓮祐)卒す(年八十三)。

[続史愚抄]
  大風屋を発す。諸国稼を傷む。八幡山木二千余株及び高良社の樹倒る。圧死者二人。
  因って明日の放生会延引す。山門横川の僧徒訴えに依り、日吉聖眞子神輿を中堂に上
  ぐ。横川初例なり。
 

8月15日 壬戌 晴
  鶴岡の放生会。将軍家御出例の如し。相州・武州・左典厩等廻廊に候せらる。また弾
  正少弼業時・相模の三郎時輔・越後の四郎顕時等御桟敷に参ると。
  先ず中御所御出で。
  供奉人
   備中次郎兵衛の尉行藤  佐々木壱岐四郎左衛門の尉長綱 城の中八郎秀頼
   大泉の九郎長氏     荻原右衛門の尉定仲   長雅楽左衛門三郎政連
    以上六人直垂を着し帯劔、御車の左右に候す。
  御後十人(布衣・下括り)
   越前の前司時廣     刑部少輔時基      中務権の少輔重教
   日向の前司祐泰     縫殿の頭師連      遠江の四郎政房
   加賀の前司行頼     長次右衛門の尉義連   佐々木孫四郎左衛門の尉泰信
   加地七郎右衛門の尉氏綱
  次いで将軍家御出で。
  供奉人
  先陣の随兵十一人
   壱岐三郎左衛門の尉頼綱 加藤左衛門の尉景綱   筑前四郎左衛門の尉行佐
   武藤左衛門の尉頼泰   伊東八郎左衛門の尉祐光 伊勢次郎左衛門の尉行経
   出羽三郎左衛門の尉行資 武蔵の五郎宣時     城六郎兵衛の尉顕盛
   相模の七郎宗頼     陸奥の十郎忠時
  次いで諸大夫
  次いで殿上人
  次いで公卿
  次いで御車
   越中次郎左衛門の尉長員 土肥四郎左衛門の尉實綱 隠岐四郎兵衛の尉行長
   武籐新左衛門の尉長胤  出羽の十郎行朝     近江三郎左衛門の尉頼重
   一宮次郎左衛門の尉康有 山内三郎左衛門の尉通廉 善太郎左衛門の尉康定
   鎌田三郎左衛門の尉義長 薩摩左衛門の尉祐家   伊東六郎左衛門三郎
    以上十二人直垂を着し帯劔、御車の左右に候す。
  次いで御後十五人(布衣・下括り)
   弾正少弼業時      相模の四郎宗政     相模左近大夫将監時村
   遠江右馬の助清時    相模の三郎時輔     越後の四郎顕時
   木工権の頭親家     和泉の前司行方     越中の前司頼業
   対馬の前司氏信     備中の守行有(御調度役、黒)周防五郎左衛門の尉忠景
   (御沓手長)鎌田次郎左衛門の尉行俊 (御笠手長)進三郎左衛門の尉宗長
   善五郎左衛門の尉康宗
  次いで後陣の随兵十人
   佐介越後の四郎時治   畠山上野の三郎国氏   大須賀新左衛門の尉朝氏
   越中五郎左衛門の尉泰親 平賀三郎左衛門の尉惟時 伯耆左衛門五郎清氏
   佐々木対馬太郎左衛門の尉頼氏   信濃判官次郎左衛門の尉行宗
   遠山孫太郎左衛門の尉景長     長門左衛門八郎頼秀
  官人
   十五日中所労を称し退出す。十六日不参
   佐々木足利大夫判官家氏      信濃判官時清
 

8月16日 癸亥 天膚快霽
  御参宮昨日に同じ。
  競馬の禄を取る人々、
   越前の前司時廣  相模左近大夫将監時村  相模の三郎時輔  刑部少輔時基
   遠江右馬の助清時 同四郎政房       越後の四郎顕時
 

8月25日 壬申 天晴
  御上洛の事、大風に依って諸国の稼穀損亡するの間、弊民の煩いを休めんが為延引せ
  らるる所なり。仍って今日その旨を以て六波羅に仰せ遣わさる。御教書二通これを遣
  わさる。一通は京畿御家人に相触るべき事、一通は左親衛分国の輩存知るべき事なり。
  その状に云く、
   御上洛の事、大風に依って御延引の由仰せ下さるる所なり。その間御使を進せらる
   べきと雖も、且つはその旨御家人等に相触れらるべきなり。仰せに依って執達件の
   如し。
     弘長三年八月二十五日     武蔵の守
                    相模の守
       陸奥左近大夫将監殿

   来十月の御上洛御延引有る所なり。且つは御京上役弁済の所々に於いては、百姓に
   糺返せしむべきなり。早くこの趣を以て摂津・若狭の国中に下知せらるべきの状、
   仰せに依って執達件の如し。
     弘長三年八月二十五日     武蔵の守
                    相模の守
        陸奥左近大夫将監殿

  今日、春日部左衛門三郎泰實美濃の国指深庄の地頭職を召し放たる。これ当庄沙汰人、
  地頭非法有るの由これを訴え申すに就いて、六波羅召文を下すと雖も、泰實これに応
  ぜず。仍ってその趣を注進するの間この儀に及ぶ。即ち陸奥左近大夫将監の許に仰せ
  遣わさるる所なり。また法印房源・権律師覺乗等、相州禅室の御第に於いて大般若経
  を信読せしむ。御病脳有るに依ってなり。亥の刻甘縄火事有り。北斗堂辺の民居多く
  以て災すと。
 

8月26日 癸酉 陰
  去る十四日の大風に依って、諸国損亡し百姓愁歎するの間、撫民の儀を以て、将軍家
  御上洛延引するの間、遠江十郎左衛門の尉頼連を以て御使と為し、この由を仙洞に申
  せらると。
 

8月27日 甲戌 天晴、申の刻以後風雨、夜に入り大風
  由比浦の船舶波に没し、死人汀に寄る。彼是勝計うべからず。また鎮西乃貢の運送船
  六十一艘、伊豆の海に於いて同時に漂濤すと。