1263年 (弘長3年 癸亥)
 
 

12月9日 乙卯 天晴
  夜に入り右少弁経任朝臣仙洞の御使として下着す。最明寺禅室の事に依ってなり。
 

12月10日 丙辰 天晴
  源亜相勅使に対面す。また秋田城の介泰盛同じく謁し申すと。今日御教書を諸国守護
  人に下さる。これ相州禅室の御事に依って出家を遂ぐべからざるの旨、兼ねて以て触
  れ仰せらるるの処、違犯の輩有るの由風聞せしむが故なり。
   相模入道逝去の御事に依って、御家人等出家せしむべからざるの由、先日仰せ下さ
   るるの処、御制に背き多く以て出家すと。その国の御家人中、出家の輩を注し申せ
   らるべきの状、仰せに依って執達件の如し。
     弘長三年十二月十日
   某殿
  丑の刻若宮大路焼亡す。始め呪師勾当の辻より大學の辻子に至るまで、火芳延す。そ
  の中間の人家皆以て災す。太宰の少貳景頼入道の宅その中に在りと。
 

12月11日 丁巳
  相州・武州等勅使に謁し申さると。今日御祈りを始行せらるるの間、大阿闍梨安祥寺
  僧正の休所として、和泉の前司行方の家を点ぜらるるなり。師連これを奉行すと。
 

12月13日 己未 天晴
  今暁右少弁経任朝臣帰洛す。在鎌倉僅かに四箇日と。
 

12月16日 壬戌 天晴
  六波羅の陸奥左近大夫将監時茂朝臣帰洛す。最明寺殿の御事に依って参向す。而るに
  彼の地の沙汰を緩めべからざるの由仰せ出さるるの間、鞭を揚ぐと。
 

12月17日 癸亥 晴
  戌の刻荏柄社前失火し、余焔塔辻に至る。宮内権大輔時秀の家御息所の御産所に定め
  らるるの処、同じく以て災を免がれず。
 

12月24日 庚午 天晴、夜に入り雨降る
  今日評定衆等相州の第に参る。御息所の御産所並びに御方違え等の事その沙汰有り。
  陰陽師等を召し、面々の異見を尋ねらる。爰に御産所に渡御する日、来二十四日たる
  べきの由、兼ねてこれを定めらる。而るに今晴茂朝臣申して云く、彼の日は没日なり。
  憚り有るべしと。業昌申して云く、建長六年四月二十四日丙寅没日、大宮院御産所に
  入御す。憚り無しと。且つは件の例を勘じ申すの間、相論無為に落居す。次いで御産
  所宮内権大輔の家焼失するの間、公時・義政両大夫将監亭を点ぜらるるの処、晴茂申
  して云く、閇杯八座方に当たり、その憚り有りと。爰に三河の前司教隆難じ申して云
  く、凡そ大臣家以下の古勘文、この事を入れずと。次いで御方違え二十九日を用いら
  る。而るに業昌申して云く、往亡日なり。その憚り有るべしと。業昌また申して云く、
  常途の御方違えに非ず、産所たるの條如何と。仍って三州晴茂朝臣に問答せしむるの
  処、憚り有るべからざるの由を申すと雖も、相州猶兼ねて憚るべきの意見を許容し給
  うと。
 

12月28日 甲戌 天晴
  御息所御方違えの為左近大夫将監公時朝臣の名越亭に入御す。これ御産所に定めらる
  るに依ってなり。
 

12月29日 乙亥 天晴
  辰の刻御息所名越より還御す。午の刻六波羅の大夫将監室妊帯を着す。若宮僧正これ
  を加持し給うと。