1265年 (文永2年 乙丑)
 
 

3月1日 庚午 風雨甚だし
  戌の刻雷鳴。
 

3月4日 癸酉 天晴
  今日御所の鞠の御壺に於いて童舞を覧る。これ昨の鶴岡法会の舞楽を引き移さるる所
  なり。先ず舞童等南北に相分かれ着座す(西を以て上と為す)。土御門大納言・花山
  院大納言等簾中に候せらると。
  出居
   公卿
    従二位顕氏卿  従二位基輔卿
   殿上人
    一條中将能基  八條中将信通  八條兵衛の佐盛長
    六條少将顕名  唐橋少将具忠  六條侍従顕教
   左 三臺 甘州 太平楽 散手 陵王
    太平楽(乙王・夜叉王・松若・禅王・瑠璃王・幸王)
    散手(乙王)     陵王(松若)
   右 長保樂 林歌 狛桙 貴徳 納蘇利
    狛桙(萬歳・金王・千手・乙鶴・金毘羅・竹王、各々浅黄の直垂を着す)
    貴徳(萬歳)     納蘇利(禅王・幸王・豆王)
  又左近将監中原光氏廻雪、賀殿を奏すの間禄物(五衣)を給う。能基朝臣これを役す。
 

3月5日 甲戌
  鎌倉中散在の町屋等を止められ九箇所を免さる。また掘上の家・前大路の造屋同じく
  これを停止せらる。且つは保々に相触るべきの旨、今日地奉行人小野澤左近大夫入道
  に仰せ付けらるる所なり。
    町御免所の事
   一所大町    一所小町  一所魚町  一所穀町  一所武蔵大路下
   一所須地賀江橋 一所大倉辻
 

3月7日 丙子 天晴
  御所の彼岸御懺法結願す。御布施取りは公卿中御門三位(公寛、直衣)・殿上人九人
  (或いは束帯、或いは布衣)・諸大夫二人(押垂掃部の助・信濃蔵人)なり。御息所
  今日より七箇日鶴岡に御参籠。夜に入り御出で(御輿)。女房東御方・一條の局尼・
  卿の局、並びに下臈三人供奉す。これより先縫殿の頭師連の奉行として、指図を宮寺
  に遣わされ、御局等を構えしむと。別当僧正六十余人の匠を催し、不日の功を終う。
  熱田三嶋御前の横廊四間を以て御局と為す。西二間を以て御寝所並びに御念誦所と為
  す。東二間を以て御出居と為す。東廻廊と横廊との中間の敷板を以て台所と為す。東
  廊北端を以て東御方の局と為す。その次ぎ一間を以て卿の局と為す。南端二間を以て
  一條殿の局と為す。その次ぎ一間を以て御湯殿と為す。また局後の籠軒敷板は、下口
  並びに湯殿と為す。白幕五帖を以て廻廊北軒に曳き、面道と為すと。
 

3月9日 戊寅 天晴
  亥の刻大地震。今夜鶴岡若宮の宝前に於いて管弦講を行わる。別当僧正式(八幡講と)
  を読む。その後御神楽有り。人長松若丸・本拍子(萬歳)・末拍子(禅王)・和琴(千
  手)・篳篥(乙鶴)・太笛(夜叉王)と。
 

3月11日 庚辰 天晴
  鶴岡上宮に於いて法華経供養有り。権少僧都慈暁導師たり。
 

3月13日 壬午 天晴
  御息所御参籠の間、御局以下の事丁寧の沙汰を致すの由、別当僧正を召し御感有り。
  その上南廷(三)・砂金(十両)・銀劔等を賜う。縫殿の頭師連これを伝うと。
 

3月22日 辛卯 天晴、南風烈し
  今日大田民部大夫従五位下三善朝臣康宗卒す(年五十四)。
 

3月28日 [北條九代記]
  時宗相模の守を兼ねる。政村右京権大夫に任ず。