1265年 (文永2年 乙丑)
 
 

7月4日 庚子
  未の刻山内の御山庄に於いて、侍二人闘乱を起こし雌雄を決し、相互に死にをはんぬ。
  これに依って鎌倉中騒動し、御家人等馳参す。
 

7月10日 丙午 天晴
  御息所、御産所左近大夫将監宗政朝臣亭に入御す。
 

7月16日 壬子 天晴
  晩に及び将軍家左京兆の小町の第に入御す。
  供奉人
   源大納言      一條中将     中務権大輔    弾正少弼
   越後左近大夫将監  信濃大夫判官   美作左衛門蔵人  同兵衛蔵人
   式部太郎左衛門の尉 和泉左衛門の尉  城六郎左衛門の尉 周防五郎左衛門の尉
   甲斐三郎左衛門の尉 善太郎左衛門の尉 伊東の余一    薩摩左衛門四郎
   加藤の三郎
  左京兆庭上に跪き、出居に入れ奉らる。御安座以前御鍾を供御す。供奉人の前に至る
  まで皆肴物を置く。而るに三献の未だ終わらざるの程、秋田城の介泰盛砂金百両・鞍
  馬一疋を遣わす。御所入御の由伝承するに依って、これを引き進すと称すと。また戌
  の刻亭主の息女嫁娶の儀有り。相模左近大夫将監宗政の第に渡らる。出居に於いて御
  酒宴有り。姫公常の居所より出立しをはんぬ。この間父朝臣遂に御前の座を起たれず。
  大名の用意、時の美談なり。暁更還御の期に臨み、御引出物を進せらると。
 

7月18日 甲寅 天晴
  前の三河の守正五位下清原眞人教隆卒す(年六十七、時に在京)。
 

7月23日 己未 陰
  将軍家山内の御亭に入御す。
 

7月24日 庚申 天晴
  山内に於いて相撲並びに競馬等を覧る。凡そ遊宴数を尽くさる。晩頭還御す。左典厩
  御贈物を奉らる。また供奉の人々面々これに預かる。
 

7月25日 辛酉 天晴
  法印定親入滅す。
 

7月28日 甲子 小雨降る
  御産の御祈り千度祓いを行わる。晴茂・宣賢・業昌・晴長・晴秀・晴憲・晴宗・泰房
  ・職宗・親貞等これに候す。陪膳は左近大夫将監時村(萌黄の狩衣・紫の奴袴)・右
  馬の助清時(織物の狩衣・蘇芳の指貫、御所よりこれを給う)、役送十人(各々布衣)、
  恪勤十人(各々白の直垂)手長たり。縫殿の頭師連・備中の前司行有(式部太郎左衛
  門の尉光政軽服の替わり、俄にこれを奉る)等これを奉行す。