1266年 (文永3年 丙寅)
 
 

4月5日 戊辰 天晴
  将軍家御小瘡有り。医師等参上し、御療治の事その沙汰に及ぶと。
 

4月7日 庚午 朝雨下る。陰、南風烈し
  将軍家御蚊触れの間、御蛭カイ有るべきの由、施薬院使忠茂朝臣これを申す。而るに
  三嶋社の神事に依って、憚るや否や陰陽道に問わる。御参社の儀無くば、何の憚り有
  るべきやの由これを申す。また社司に尋ねらるるの処、同じく憚り無きの由を申す。
  仍ってこの御療有りと。
 

4月8日 辛未 天晴
  前の左兵衛の督正三位藤原朝臣教定卒す。日来瘡を煩う所なり。
 

4月15日 戊寅
  長門の国一宮の神人等殺害・寄せ沙汰を致すの由の事、守護人資平子細を注し申すに
  就いて、その沙汰有り。並びに狼藉の事奉行せしむべきの由、資平これを申すと雖も、
  守護沙汰の事は式目に定められをはんぬ。而るに守護の身として国の検非違所に補す
  の條、然るべからずと。
 

4月21日 甲申 霽
  甲乙人等数十人、比企谷山の麓に群集し、未の刻より酉の刻に至るまで飛礫を向かう。
  爾後武具を帯び闘諍を起こす。夜廻り等その所に馳せ向かい、張本一両輩を生虜り、
  これを禁楼せらる。残る所悉く以て逃亡す。関東未だこの事有らず。京都の飛礫は猶
  以て狼藉の基として、固く禁遏を加うべきの由、前の武州禅室執権の時その沙汰有り、
  六波羅に仰せられをはんぬ。況や鎌倉中に於いてをや。奇なるべしと。
 

4月22日 乙酉 天晴
  将軍家御悩の事に依って、松殿僧正を以て験者と為し、護身有るべきの由御沙汰に及
  ぶと。