1266年 (文永3年 丙寅)
 
 

7月1日 辛卯 雷雨
  御家人等、或いは関を破り鎌倉に奔参するの輩有り、或いは路を廻り密参するの類有
  り。皆兵具を帯し辺土の民屋に隠居す。酉の刻に及び俄に騒動す。群集の輩小具足を
  加え弓箭を帯す。然れども無事にして暮れをはんぬ。
 

7月3日 癸巳 天晴
  暁木五諸喉第三星を犯す。今暁より民間安まらず。或いは家屋を破壊し、或いは資財
  を運び隠す。これ皆戦場を怖れるが故か。巳の一点甲冑の軍士旗を揚げ、東西より馳
  せ集い、悉く相州の門外に窺い参る。次いで政所南大路に於いて一同時の音を相わす。
  その後少卿入道心蓮・信濃判官入道行一等相州の御使として御所に参る。往還両三度
  に及ぶと。先ず此の如き軍動の時、将軍家執権の第に入御す。また然るべき人々営中
  に参りこれを守護し奉るか。今度はその儀無し。世以てこれを恠しむ。朝に馴れ暮れ
  に昵む老若の近臣の類皆出て、周防判官忠景・信濃三郎左衛門の尉行章・伊東刑部左
  衛門の尉祐頼・鎌田次郎左衛門の尉行俊・渋谷左衛門次郎清重等ばかり御所中に相残
  ると。
 

7月4日 甲午 天晴、申の刻雨降る
  今日午の刻騒動す。中務権大輔教時朝臣甲冑の軍兵数十騎を召し具し、薬師堂谷の亭
  より塔辻の宿所に至る。これに依ってその近隣いよいよ以て群動を成す。相州東郷の
  八郎入道を以て、中書の行粧を制せしめ給う。陳謝するに所無しと。戌の刻将軍家越
  後入道勝圓の佐介の第に入御す。女房輿を用いらる。御帰洛有るべきの御出門と。
  供奉人
   土御門大納言   同中将        同少将
   木工権の頭親家  同子息左衛門大夫景教 同兵衛蔵人長教
  女房
   一條の局(追参) 別当の局  兵衛の督の局  尼右衛門の督の局
  この外
   相模の七郎宗頼  太宰権の少貳景頼
  路次、北門より出御し、赤橋を西行、武蔵大路を経て、彼の橋の前に於いて御輿を若
  宮方に向け奉り、暫く御祈念有り。御詠歌に及ぶと。
  供奉人
   相模の七郎宗頼    相模の六郎政頼     遠江の前司時直
   越前の前司時廣    弾正少弼業時      駿河式部大夫通時
   尾張の四郎篤時    越後の六郎實政     周防判官忠景
   城の彌九郎長景    佐々木壱岐入道生西   河越遠江権の守経重
   小山の四郎      和泉左衛門の尉行章   伊東刑部左衛門の尉祐頼
   和泉籐内左衛門の尉  武藤新左衛門の尉景泰  甲斐三郎左衛門の尉為成
   出羽七郎左衛門の尉
  この外
   土御門大納言     同子息中将顕實     同少将
   木工権の頭親家    同子息左衛門大夫季教  同兵衛蔵人長教
  女房
   一條の局   別当の局  右衛門の督の局  民部卿の局
   小宰相の局  侍従の局  越後       加賀
   但馬     春日

[保暦間記]
  征夷将軍上洛の事、良基僧正の事に依てなり。
 

7月20日 庚戌 天晴
  戌の刻前の将軍家御入洛。左近大夫将監朝茂朝臣の六波羅亭に着御す。

[五代帝王物語]
  将軍中務宮関東より上らせ給。かねて早馬つきて其よし聞えしかば、院中も御騒ぎあ
  りしほどに、すこしびゝしからぬ御行粧にて御上。先六波羅へつかせ給て、其後承明
  門院の御旧跡土御門殿へ入せ給ふ。彼御跡は中書王御管領なる故なり。

[続史愚抄]
  征夷大将軍一品中務卿宗尊親王婦人輿に乗り入洛す。鎌倉より逐い帰されてえり。こ
  の事に依って一院御義絶有りと。
 

*[増鏡]
  東に心よからぬ事出来て、中務の御子宮うへ上らせ給ふ。何となくあわただしき様な
  り。御後見は、猶時頼朝臣なれば、何のおもろしき事などはなければ、宮は、御子の
  惟康の親王に将軍を譲りて、文永三年七月八日、上らせ給ひぬ。御下りのをり、六波
  羅に建てたりし檜皮屋一あり。其処にぞ初めは渡らせ給ふ。いとしめやかにひきかへ
  たる御有様を、年月のならひに、さうざうしう、物心ぼそう思されけるにや。
    虎とのみもちゐられしは昔にて今は鼠のあなう世の中
  院(後嵯峨)にも、東の聞えを包ませ給ひて、やがては御対面も無く、いと心苦しく、
  思ひ聞えさせ給ひけり。経任の大納言、いまだ下臈なりし程、御使に下されて、何事
  かと仰せられなどして後ぞ、苦しからぬ事になりて、宮も土御門殿承明門院(在子)
  の御あとへ入らせ給ひけり。院へも常に御参りなどありて、人々も仕うまつる。御遊
  びなどもし給ふ。雪のいみじう降りたる朝あけに、右近の馬場のかた、御覧じにおは
  して、御心のうちに、
    なほたのむ北野の雪の朝ぼらけあとなきことにうづもるゝ身も
  世をみだらむなど思ひよりけるものゝふの、この御子の御歌すぐれてよませ給ふに、
  夜々いとむつまじくつかうまつりける程に、おのづから同じ心なるものなど多くなり
  て、宮(宗尊)のみけしきあるやうに、いひなしけるとかや。左様の事どもひゞきに
  より、斯くおはしますを、思し歎き給ふなるにこそ。
 

7月24日 [北條九代記]
  惟康親王従四位下に叙す。同日征夷大将軍と為す。

[五代帝王物語]
  さて将軍には中書王の御息所(岡屋入道殿女)の御腹の宮三歳にてなり給。七月二十
  四日に宣下せらる。御名は惟康とてやがて従四位下に叙給ふ。此事により左少弁経任
  (中御門大納言)御使にて関東に下向。別事あるまじきとて武家も物沙汰はじまり、
  京に八月十六日より院の評定始らる。
 

10月 [続史愚抄]
  前の将軍宗尊親王(一品中務卿)六波羅北方左近将監時茂の館より。土御門万里小路
  (承明門院旧跡)に移る。去る七月御義絶の儀有り。この後密かに御対面に及ぶと。
 

11月2日 [北條九代記]
  中御所・姫宮等御上洛。良基僧正逐電し、高野山に於いて断食死去す。