楽岩寺下総守種久は天神山の合戦に打勝ちて、長柄の城を取囲み、唯一揉に攻落さんと
味方を励まし戦いしが、此方も聞ゆる三浦道寸、此城を破られなば、何面目あって再び荒
次郎義意に面を合わさるべきと秘術を尽して防ぎければ、種久も容易に抜くこと能わず、
夕暮に及んで一旦兵を収め、城外に陣を張りて暫く休息なし居たり、長き春の日も程無く
暮れて月は朧に戦場を照しぬ、敵も疲れしと見えて長柄の城は音も無し、今朝よりの合戦
なれば、味方の兵も疲れを催し、槍刀を枕として居眠る者も少なからず、夜の更け行くに
従って篝火消えて光無し、春の夜の月なれば、或は照し或は曇り、山野朦朧として敵味方
の旗の影淡く夜嵐に翻るのみ、されども戦馴れたる種久と小桜姫は斯る折に敵より夜襲を
掛けられなば、一大事と疲れを忍んで夜を守りけるに、種久俄に耳をそばだて「アレ向う
の山根に当って時ならぬ響の聞ゆるは峰の嵐の吹き落ちたるか、それとも敵の寄せたるか、
小桜物見仕れ」、小桜姫心得て葦毛の駿足にヒラリと跨り、陣中を馳出で田越川の河岸に
来って、遙に向うを見てあれば、月影優しき二子山の峰続きより、其勢凡そ三百余騎此方
を望んで馳せ来る、小桜姫取って返し「父上御油断あるべからず、只今新井の本城より長
柄の城へ後詰の兵の来りて候」、種久延上って二子山の方を望み「扨は何人が長柄の後詰
に来りけるか、余の者ならば野戦を憚りて彼の山に陣を取るべし、もしも三浦家の鬼神と
呼ばるヽ荒次郎義意ならば、我が兵の疲れたるを察して直ちに此方へ寄せ来るべし、義意
は侮り難き敵なり、我自ら馳向って此援兵を防がん、小桜姫、汝は此に留まって城の兵の
撃ち出ずるを喰止め候え」と俄に陣中に号令して兵を二手に分ち、自ら一手の兵を率い、
田越川の此方に備えを立てたり、
三浦荒次郎義意は今二子山の峰に登り、月の光を頼りにて戦場の景色を打眺め、忽ち馬
を駈って敵陣へ攻掛らん勢なれば、老臣大森越前守これを諫め「夜陰の戦は兵家の避くる
所、今宵は此に備を立てヽ、明日朝掛に此敵を御破り候え」と申しければ、義意頭を振り
「イヤイヤそれは時にこそ依るなれ、敵兵は今朝よりの合戦に疲れつらん、味方は新手の
精兵なり、案内知ったる此土地にて疲れし敵を破らんこと唯此一戦なり、者ども進め」と
励まして、二子山を馳降り田越川の河岸まで来るけるに、川の彼方に一手の敵兵真丸に備
を立てヽ待ち掛け居たり、荒次郎此体を見て「扨も楽岩寺種久は物に馴れたる兵よ、我が
来るを知って優しくも此備を立てたり、其儀ならば我手並を現わして、唯一戦に蹴散らし
呉れん」と続く味方を麾き、「面々早く浅瀬を測って此川を渡し候え、水音激しき処は浅
瀬なるぞ、もし誤って深みへ陥らば弓を流して助け候え、復向うの岸に渡りなば、長柄の
城へ知らせん為、鬨の声を揚げて合戦を始めよ、闇きに紛れて同志打すな、敵に逢わば先
ず合言葉を掛けよ」と残り無く下知を伝えて田越川の急流を渡したり、味方はもとより案
内知ったる領内なれば、一人も溺れしもの無く三百余騎轡を並べて向う岸に着き、一度に
咄と鬨の声を揚げて敵陣に攻掛りける、種久此体を見て、急に鶴翼の陣を張り。荒次郎が
兵を包み撃たんとなしければ、荒次郎は手勢を纏めて奔雷の雲を破る如くに突き入ったり、
いずれも劣らぬ知勇の大将、或は開き或は合し千変万化に闘えば、何時果つべきとも見え
ざりけり、此時長柄の城には、三浦道寸が頻に後詰の兵の来るを待ちけるが、田越川の方
に当って俄に起りし鬨の声に、スワこそ荒次郎の来れるよ、此方よりも斬て出で、双方よ
り敵兵を挟み撃ちになすべしと、城門を八文字に開き、二千余騎の同勢にて敵の陣に攻め
掛れば、待設けたる小桜姫、鉄壁の如く備を立てヽ此を先途と挑み合う、彼方は父と荒次
郎、此方は姫と道寸入道、二か処に始まる夜陰の合戦、月は雲間に隠れたり、