12 仮の弓琴(優しやな)

 行く雲の月を隠して暗き夜に、二か所に交ゆる白刃の光は電光石火と見ゆるなり、矢叫
び・鬨の声・鎬を削る太刀音まで、天地に響きて物凄まじ、彼方は名に負う金沢勢、此方
は猛き相模武士、互に恥を重んじ、死を軽んじ、追いつ追われつやや半時余りも戦いしが、
金沢勢は何分今朝よりの合戦に疲れたるに、敵は新手の猛兵なり、武勇鋭き荒次郎義意が
必死の鉾敵し難く、種久の兵は遂に敗走して小桜姫が陣へ崩れ掛る、小桜姫心は矢竹に逸
れども、潰ゆる味方に支えられ、父種久と諸共に心ならず天神山の方へ引退く、三浦勢も
長追せず兵を纏めて長柄の城に入りにけり、斯くて其夜も明けぬれば、種久は小桜姫と共
に再び長柄の城外に兵を進めけるに、長柄城よりは荒次郎義意を先陣として、道寸入道撃
て出でたり、されども互に手並を知りたれば、容易くは討ちも掛らず、田越川を中に挟み
陣を堅めて白眼み合う、折しも田越川沿岸の桜は修羅の巷を知りもせで、露を含める花の
色、今こそ正に盛りなりけれ、小桜姫は斯る景色を仇に過さんことの口惜しかりけん、一
段高き芝山の上に幔幕を打廻し、父種久と共に花の下の酒宴を開きけるが、陣中の事なれ
ば杯盤の用意も無し、銚子に代る水瓢・割子は時の肴ぞと、種久大に興を催し「如何に小
桜、敵の大軍を前に置き、花見の酒宴を開きしこと、古今例を聞かず、アワレ此陣中に一
張の琴あらば、其方に秘曲の手を尽させて、敵味方を驚かし呉んものを」と言いければ、
小桜姫思案なし「伝え聞く、昔日本武尊東征の時、相模国阿芙利山に於て御妃橘姫、尊が
陣中の徒然を慰め参らせんと、弓を聚めて其弦を弾き、秘曲を奏し給いしとかや、是我国
に於て琴の始なりと承る、橘姫には及び難くとも当座の興に弓を聚めて妾一曲を奏し候わ
ん」、種久「これは面白し、疾く用意仕れ」と兵士に命じ、十三張の弓を聚め、弦を並べ
て仮の緒琴となせば、小桜姫は春の花の琴曲とて花風楽に柳花苑を奏しける、もとより此
道の堪能なり、声は川水に響き渡って雲も停まり花も落ち、敵も味方も心耳を澄まして、
アラ優しの調べやと感ぜぬものこそ無かりける、三浦道寸遙に此体を望で怒を発し「憎き
敵の振舞かな、味方を侮り陣中に酒宴を開くとは奇怪なり、川を渡して微塵に敵を打破れ」
と兵を進めん有様なり、荒次郎父の前に来り「楽岩寺勢が人も無気なる振舞は、味方を怒
らせ此川を渡らしめん計略と覚え候、御覧候え、アノ川上の一叢茂き森の中には正しく敵
の伏勢あり、妄に動きて敵の計略に乗り給うな」、道寸「とは申せども、敵の振舞余りに
心憎し、汝一矢を放って彼の酒宴の席を驚かし候え」、荒次郎「畏て候」と心静に駒を岸
頭に乗出し、弓に矢を番えて大音揚げ「如何に楽岩寺殿に物申さん、修羅の合戦を余所に
して花の下の御酒宴とは羨まし、我等も御酒宴の体を見たく候えば、憚りながら其幔幕を
取外し候」と狙い定て放つ矢は、水をも花をも打超えて、幔幕の結び目フッと射切ったり、
幕はサラリと地に落ちて、開けし宴席見てあれば、種久と小桜は芝生の上に敷皮敷き、屈
強の郎等に前後を守らせ、獲物を側に引付けて悠然として控えたり、小桜姫遙に荒次郎と
顔見合せ、嫣然と笑うて掻鳴す一曲は心を籠めたる想夫憐、鎧の袖に花散りて、優しくも
亦勇ましヽ、種久は荒次郎が今の弓勢に驚きけるが、さあらぬ体に此方を望み「三浦勢も
風流の心を知らば川を渡って此処へ御入り候え、我等は唯御身父子をこそ待候」と扇を揚
げて麾く、荒次郎馬上に一礼し「優しくも招き給うものかな、川上にまで出迎いの伏勢を
備え置かれしは心遣いぞ類無き、イデ御出迎いの兵を打破って花の下の御酒宴に参向致さ
ん」と急に我が兵を森の方に進めける、コハ見透されたりと種久立って馬に跨れば、琴の
音止んで小桜姫も大薙刀を手に執れり、