知者は居ながらにして千里を知る、小田原の北条早雲入道は、日頃諸国に間者を入れて
敵方の様子を探りしが、最も心に掛るは三浦・楽岩寺の両家なり、両家共に武勇鋭き家柄
なれば、愈々和睦を深くして、共に我兵を防ぎなば我大望の妨げなり、如何にもして再び
此両家の仲を烈き、同志打を為さしめ、我は其隙を窺わんと竊に思慮を廻らして、間者の
音信を待ちけるに、或日の夕暮近習の一人早雲の前に来り「多目権平近康夫婦が金沢表よ
り帰り候」と言上す、早雲大に悦び「ナニ多目権平が帰りしとな、然らば三浦・楽岩寺両
家の様子は知れつらん、早々是へ」と招きける、やがて案内に従って早雲が前に立出でた
るは、彼の金沢の末広売、妻は伴わで唯一人早雲が前に畏まる、早雲側近く招き「如何に
権平、此程の辛労大儀に存ずる、扨三浦・楽岩寺両家の様子は如何に、愈々和睦は破り難
きか」、権平「さん候、和睦は愈々破り難く、小桜姫と荒次郎の縁組も愈々来月三日と定
まり候」、早雲聞て眉を顰め「さあらば愈々縁組の日限まで定まりたるか、両家一たび縁
を結びなば、我が為の大患なり、其当日とならぬ内に反間の謀を廻さねばなるまじ、扨三
浦家の様子は如何に」、権平「某夫婦金沢に参らぬ以前、先ず新井の城下に到り、三浦父
子の様子を探り候に、此度の和睦は全く荒次郎義意の心より出でし事にて、父道寸入道は
飽くまで楽岩寺家を滅し、其所領を奪わんとの野心ある様に見受られ候、又楽岩寺種久と
ても左の通り、道寸に心は許さヾれども、荒次郎義意の武勇に愛て娘を遣わし候なり、さ
れば謀を以て道寸と種久の間を引裂き候わば、再び合戦の起らんこと必定にて候」と申し
ける、早雲横手を拍ち「能くこそ心付きたり、さあらばそれに依て計らうべき計略あり、
必ず両家を離間して、再び合戦を起さしめん、さりながら権平、汝が見たる所にて、両家
もし合戦を始めなば、何れが遂に勝つべきと存ずるや」、権平「さればに候、某倩々両家
の有様を見るに、三浦家は累代の大族にして所領相模半国に跨り、道寸の武略人に勝れた
るに、嫡男荒次郎は勇武絶倫の若者に候、楽岩寺種久は勇なりと雖も、所領も狭く兵寡し、
長く戦い候わば到底三浦家に勝事は叶い候まじ、我君が三浦家を御征伐あらんにも急に滅
さんとし給わば、却て不覚の基とならん、今日の謀は唯弱を示して三浦家を油断させ、飽
まで道寸の心を驕せて、後に緩々御征伐あるこそ然べく候」、早雲打頷き「汝が言葉先我
が心を得たり、三浦家は油断なり難き大敵なり、彼をして常に外に戦わしめ、其疲るヽを
待って襲い撃たん、兎も角も先ず楽岩寺と間を裂かしむべし」と竊に密議を凝らして、権
平を退かしめ、やがて夜の更くるを待ち、近頃召抱えたる忍びの達人石橋雷太郎友房と云
える剛の者を我が居間に招き、四辺の人を退けて、これに密計を授け「汝は中国浪人にて
関東の人に顔を知られざるを幸い、金沢城に忍び入り斯様々々に計略を行うべし、仮令如
何なる責苦に逢うとも、決して我が名を漏すべからず」と命じける、雷太郎畏り「数多き
諸臣の中に新参者の某へ斯る大役を仰せ付けらるること武士の面目これに過ぎず、某金沢
城へ忍び入り、命に換えても此密計を行い候べし、必ず御心を労し給うな」と早雲の前を
退き、其夜の中に身仕度して小田原を発足せり、実に浅ましきは戦国の世中なり、人の悦
びを妨げて我が計略の種となす、是が策士の習いなりけり、