雲近き月は名残の光ながら長閑なる夜の金沢城、楽岩寺の御息女小桜姫は、愈々婚礼の
日も近づけりと心の用意怠り無く、腰元の八重絹を対手にして、何くれの相談も親しき主
従「コレ八重絹、其方も妾と共に明日は愈々新井の城に参る身なれば、三浦武士に笑われ
ぬ様身の嗜みを致すべし、人並々の儀式と違い、武勇に誇る三浦家に参るなれば、女なが
らも武勇の志を忘るべからず、されば妾の嫁入道具も心を籠めしは武具甲冑、最早誂えし
ものも出来上らん」と姫の言葉に八重絹は、打微笑み「まこと勇名関東に隠れ無き姫君が、
鬼神と呼ばるヽ荒次郎殿方へ御輿入あるなれば、武具甲冑の御道具は珍しくは候わねども、
定めて三浦家の人々は姫君の御嗜みに驚き候わん、殊に今度御誂え召されしは、世に例無
き十三貫目の大薙刀」、小桜姫「それに緋縅の大鎧」、八重絹「復一尺八寸烏帽子形の兜
なんどは世に珍しきものに候、御祝言済んで後、姫君が其大鎧を着給い、其兜を召され、
十三貫目の大薙刀を構え給い、婿君荒次郎殿と駒を並べて戦場に出で給わば、敵も味方も
肝を潰し、誰向わんと申すものヽ候まじ、とは云え合戦は恋の邪魔、御婚礼の済む後は、
何卒合戦の無き様に」と言うを遮る小桜姫「ナニ合戦の無きことあらん、今三浦家には北
条早雲と云う大敵あり、三浦家早雲を滅さヾれば早雲必ず三浦家を滅さん、早雲は尋常の
敵に非ず、これを滅さんこと容易くは叶うまじ、妾も三浦家に参りなば当の敵は小田原勢
なり、荒次郎殿と心を合せ、必ず早雲を征伐せん、其時の用意の為に誂え置きたる此甲冑、
晴の戦場に出陣して功名手柄はなさずとも、せめては良人を守るべし、早く武具の出来よ
かし」と待ち給う折柄、父下総守種久姫君の部屋に来り給い「如何に小桜、其方が誂えの
武具甲冑は唯今漸く出来上れり、者ども是へ持込み候え」と後ろを顧みて麾く、声に応じ
て武士どもがいと重そうに持込むは、世に美事なる鎧兜、大薙刀の光も冴けし、種久は其
品々を姫君が部屋に立並べ「小桜よ、此外に我が其方への贈り物とて家重代の太刀を与え
ん」と白木の台に載せて持出さしめたるは、黄金造りの大太刀一口、「是を其方に与うる
間、もし戦場に出陣せば膚身を離さず持ち候え、今更言うまでも無き事ながら、三浦家へ
参りし後は能く良人を敬い、舅姑に仕え女の道踏違う事あるべからず、殊に心を許し難き
は道寸入道なり、彼は以前に養父を殺して其家を奪いし程の者なれば、何時野心を起して
我家を滅さんとするや知れず、構えて道寸には油断すな、もし道寸が野心を起さば、我自
ら三浦家の諸臣を語らい、道寸を押込めて荒次郎の世となすべし」と尚行末の事を物語り、
暫しの別れにと此に酒宴を開かれける、実に我娘を三国一の荒次郎に嫁せしむると思えば、
心はいとヾ嬉しけれど、復顧みて今迄我が一臂と頼みし此勇婦を外の家に遣るかと思えば
流石に名残惜しく、人交もせぬ親と子が互に盃を取更わして、夜の更くるを知らざりけり、
程なく夜半の鐘も聞えければ、名残は尽きじと酒宴を止め、種久は姫の部屋を出で、我が
寝所に赴かんと長廊下の此方まで来りしに、何処より忍び入ったりけん黒装束したる一人
の曲者、不意に後ろより現われて種久に斬ってかヽる、驚きながらも武勇の種久、急に身
をかわして曲者を引捕えんとなしけるが、彼方も去る者、飛鳥の如くに飛び廻りて激しく
種久に斬りかヽる、此時種久の供したる小姓一人「曲者あり、皆々御出合い候え」と大音
に呼わりければ、近習の面々八方より押取刀にて馳せ出す、小桜姫も父の危急と韋駄天の
如く駆け来る、曲者は仕損じたりと長廊下に飛出し、戸を蹴離して庭の方へ逃げんとせし
が、種久が早くも打ったる手裡剣に足を縫われて其処に倒れたり、