手裡剣に足を縫われて曲者の倒れたるに小桜姫馳せ来り、無双の大力を以て其首筋を押
えたれば、曲者は下より跳ね返さんとなしたれども、大磐石に押されし如く、身動きさえ
もならざりけり、斯くて大勢折累り、高小手に縛めて曲者を庭へ引卸す、種久憤然と怒り
を発し、近臣に命じて曲者が被りし覆面頭巾を取らしむれば、顔は知らぬど筋骨逞しき勇
士の相貌、無念の色を現して種久の顔を睨み居たり、種久声荒らげ「汝は何者に頼まれて
此種久を害せんとは為したるぞ、白状致せ」と詰りしが、曲者は黙然として口を開かず、
種久愈々怒り「白状致さヾれば拷問に掛けよ、ソレ者ども曲者を打て」と命じけるに、力
自慢の近臣両人太き棒を携え、左右より曲者の肩先・背骨の嫌い無く、肉も砕けんばかり
に打据えたり、「コレ曲者白状致さぬか、用心厳しき此奥殿へは何時の間に忍び入りたる
ぞ、何れ汝は城中の案内知りたる者に頼まれしならん、意趣か遺恨か敵の間者か、真直に
白状致さヾれば此上に辛き目見せて拷問致す」と続けざまに打ちたりける、曲者の背の肉
破れて鮮血迸れども、じっと堪えて更に苦痛の色を示さず、種久怒りに堪えざりけん、自
ら庭に降り「汝は強情な奴かな、言わずんば斯うして言わせん」と刀の鞘にて縛めの縄を
締め上げれば、両腕釣られて骨も挫けん有様なれど、曲者は両眼を閉じ口を結びて自若た
り、種久遂に責め飽ぐみ、刀を引いて暫く曲者の顔を打守るに、曲者忽ち両眼を見開き「愚
なり種久、人に頼まれ敵将を打たんとするほどのものが、何とて拷問に怖れて白状致すべ
き、事成らざれば死するは覚悟、ハヤ我首打ち候え」と言葉冷しく言い放ち、再び眼を閉
じ何事も言わざりけり、傍に立ちし近臣も其大勇に驚き、互に顔を見合せて我が腕の疲れ
しを揉み居たり、種久良暫く曲者の面体を眺めてありけるが、何思いけん刀を抜いて其縄
を切り解き「世に得難き勇士なり、以来心を改めて我に仕えよ」と和かに言いければ、曲
者は両手を突き平伏し「斯る洪量の君とも存ぜず、人に頼まれて刃を加えんとなしたる不
覚さよ、某が罪を許し御召使下さらば、身命を抛って犬馬の労を尽し申さん」と折目正し
く言上す、種久大に悦び「然らば主従の盃を致すべし」と座敷に伴い、盃を取寄せて主従
の固めを為す、実にや戦国の世には一士尚惜むべし、武勇を愛して身の仇を忘れ給う我君
の大量よと近臣達も竊に感じ合いけるが、種久やがて言葉を和らげ「斯く主従となる上は
名を名乗って身の来歴を語りても苦しかるまじ、そも汝は如何なるものぞ」と尋ねける、
曲者ハッと畏り「今は何をか包み候べき、某は素は中国浪人、石橋雷太郎友房とて聊か忍
びの術を心掛け候が、名君を索めて仕え申さんと東国を徘徊致し、近頃相模国新井の城下
へ参り、知音の方に暫く足を停め候ところ、城主三浦道寸某が忍びの術に長ぜしを聞き、
強て城中に招き入れて某を召抱え候、然るに道寸が某を抱えたるは思う子細のある事にて、
或日竊に某を閑室に招き、今度北条早雲に後ろを撃たれたる為、心ならずも楽岩寺種久と
和睦したるが、種久は勇将故後に必ず我が害を為さん、汝が敵に顔を知られざるを幸い、
忍びの術を以て金沢城に忍び入り、人知れず種久を討取り呉れよ、種久だに死せば其領地
を奪って関東に覇たらんこと手の内に在と、斯く某を見込んで頼まれ候えば、某も義に依
て辞み難く、然らば種久を討ち候わんと我君の御武徳をも存ぜず、夜に紛れて城中に入り、
忍びの術を以て此奥殿へは忍び込み候なり」と誠しやかに申しけるは、是ぞ北条早雲が心
を砕きし苦肉の計略、此物語を聴きたる種久は忽ち顔色を変じてヌックと立上り「卑怯な
り道寸、表に和睦の意を示して再び野心を起すとは奇怪至極、斯くまで我を覘う上は和睦
も縁組も是までなり、明日早天に我が軍勢を起し、新井の城を踏潰して道寸が細首打落す
べし、面々用意仕れ」と俄に城中へ合戦の用意を触れ出しける、小桜姫は夢の如し、扨も
もうたてき浮世なりけり、