三日月の影さえ細き夜ながら、晴たる空の星の光淡しく照らす道の辺に、落ち行くもの
は楽岩寺種久、追い駆くるは三浦荒次郎、ハヤ其間も近くなりければ、種久郎等を顧み「余
の敵ならば斬破って遁れんは易けれども、荒次郎にては遁れ難し、敵の手に捕われて恥か
しめを受けんより、此所にて生害致すべし、汝介錯仕れ」と大木の陰に立寄りければ、石
橋雷太郎慌てヽ押留め「イヤ是まで落延び候えば、敵勢何万騎追掛くるとも更に驚き給う
に及ばず、某兼ねて用意あり、疾く彼の川岸まで御出で候え」と自ら先に立って松原を潜
り抜け、流れも早き境川の東の岸に到りければ、何とも知れぬ舟一艘、苫を卸して繋りけ
り、雷太郎岸に立って其舟を呼びけるに、オーと答えて舟を寄せ、中より出でたる武士数
人、種久主従を舟に載せたり、種久不審に思えども、時ならぬ助けは渡りに舟と其中に入
り見れば、用意届きし早舟にて、十余人の舟子ども櫓を並べ力限りに疾風の如く漕ぎ出す、
其跡に荒次郎義意駒を岸辺に乗り寄せたるが、舟遠ざかりければ詮方なく、駒を還して金
沢城に入りにけり、金沢城にては三浦道寸種久を討漏らせしを残念に思いしが、さりとて
合戦は大勝利、金沢城を攻落して楽岩寺の領地を奪い、日頃の望みも達したれば、金沢城
へ守兵を籠め置き、其翌日兵を引き揚げて本国新井の城に凱旋しける、斯くて両家の合戦
は済みけるが、済まぬは荒次郎が心なり、此度の合戦そも何の子細より起りたるか、其故
を解し難ければ、生捕りし小桜姫にや尋ねんと、其繋がれし所に到り見れば、道寸が下知
とて姫は厳しき牢の中に太き縄に縛められ、頭を低れて悄然と坐し居たり、荒次郎見るも
苦しき心地して、窓の外より声を掛け「小桜どの、斯る有様をさぞ情け無く思し召されん
が、今に某父に申して必ず御身を助け参らすべし」と先ず慰むる言葉の内に切なる心は現
れたり、小桜姫漸く顔を揚げ「斯る有様は情け無しと思い候わねども、唯御怨に申すは荒
次郎殿、何とて戦場にて妾を討取り給わずや、覚悟極めし討死を御身の為に生捕られ、斯
る恥辱を受くる事、世に口惜しき限りにて候」、荒次郎「それは合戦の趣意の分り候えば、
御身を討たんこともあるべきが、心得難きは此度の合戦、堅く約せし縁組の当日に、此方
は御輿入をこそ待ち候に、思いも寄らぬ軍を起し、不意に我が領内へ攻め入り給いしは如
何なる子細に候ぞ」、小桜姫「其子細と申すは道寸殿が御心より出でしなり、二日の夜の
半程に一人の曲者殿中に忍び入て、我父を討たんとせり、引捕えて詮議すれば、忍びの達
人石橋雷太郎と云えるものにて、道寸殿より頼まれたりと白状す、去るに依て我父大に怒
り、俄に兵を起して無謀の軍を為せしなり」、荒次郎聞て打驚き「以ての外の事かな、我
が家に忍びの達人と申すもの無し、石橋とやらんは尚更知らず、父も承知の縁組に何とて
刺客を送るべき、そは察する所、小田原の北条早雲が両家の親みを妨げんと反間の謀を為
せしならん、由無き事に合戦して敵の計略に乗りし悔しさよ、よしよし某父に其由を申し
て御身を助け参らせん」と其侭引返し、父道寸に子細を語り、小桜姫を助けんと乞ければ、
道寸更に承引せず「早雲が反間の謀にもせよ、我素より種久と和せん心は無し、其上此度
城地を奪って我物となせしからは、再び和することあるべからず、小桜姫は女ながらも無
双の勇力あり、彼を生かし置かば、我を仇として後に必ず大患を為さん、今宵諸磯の浜に
引出し、首打って獄門に掛け候え」と痛く此勇婦を憚るは、先頃の合戦に姫が為に幾度も
追い詰められて其遺恨あればなり、荒次郎大に概き、尚言葉を尽して助けんと乞いけるに、
道寸遂に怒りを発し「一旦嫁と極まりし姫なれば、汝は色香に迷て父の言葉に従わざるか」、
荒次郎此一言に奮激し「某が助けんと申すは仁義の道を思えばなり、色香に迷しとは情無
し、其儀ならば諸磯の浜に引出し、美事首打って父上の実検に供え候わん」と慨然として
立て行く、並居る臣下の面々も其心中を察しやりて竊に袂を濡しける、