28 新御殿(アレ御覧ぜよ)

 兎ても角ても捨てたる身なり、生存えて何時まで恥を受けんより早く命の消えよかし、
生中に荒次郎殿の御顔を見奉り、其情けある御言葉を聞くよりも心は残る妄執の迷いぞ、
冥途の妨げなり、思わじな、思えば凡夫の浅ましさに未練の心となるものを、誰か我首打
てよかしと覚悟極めし小桜姫、闇き牢内に唯一人悄然として身の最後を待ち給う御有様ぞ
痛わしき、牢番の士卒も其身木石に非ざれば、姫の心中を察し遣りて坐ろに哀れを催しけ
ん「如何に姫君、物欲しく思い召さば何にてもあれ参らせ候わんほどに、御心置き無く仰
せられ候え」と問い慰むるも人の情け、姫は顔を揚げ給い「死すべき此身なれば物欲しと
も思わず、汝等こそ如何に疲れつらん、城中の評議は未だ我身の最後を定めざるか」、士
卒「イヤ何とも承わらず候、さりながら若殿荒次郎様の仰せもあり、必ず姫君を助け参ら
せ、目出たく若殿と御縁組あるべきよし申合い候」、姫「イヤ捕われの身にて斯る事は期
し難し、我身は最後を急ぐなり」、士卒「御心弱き事を仰せられ候な、実にや昨日まで若
殿荒次郎様と大剛の姫君が目出たく御縁組し給わば、当三浦家の御武勇は天下に敵の無か
るべしと、我々士卒に至るまで皆一同に悦び合いしを、不時の合戦に敵味方となり給い、
格式立てヽの御入城に引かえて、捕われの御身となり給いしはさぞ御無念に候べし、アレ
御覧ぜよ、当城の南に当って此度建てたる新御殿は、若殿が姫君と共に御住居あるべき為
に夜を日に継いで作事致せし所なり、如何に彼の御殿の美事にして、其又眺めの限り無さ、
前に油壺の入江を控えたり、渡れば宝蔵山、峰に棚引く白雲は散りにし花の片身とも見え
て候、斯る御殿が昨日まで姫君の御入をこそ待ち候いしに、今日は燻せき牢獄の内、身分
賤き我等にさえ、御心置き給うとは余りに情け無き御有様かな、せめて今宵一夜御忍び候
わば、明日は嬉しき御赦免の御沙汰も候わん」と頻に慰め参らせける、姫は聞も涙の種と
なり、眼を閉て再び思案に沈しを、復想い返て屹と覚悟を定め給う、折から此所に入来る
城中の武士五六人、何も姿の猛には似ず、物悲し気にヒソヒソと語り合て力無く、牢屋の
前に進み寄り、番の士卒に下知なして姫を牢屋より引出す、姫は子細を知らざれば、何処
へ往くぞと尋ね給いしに、武士一人涙ながらに其前に跪き「御痛わしくは候えども、大殿
道寸公の御下知に依り、是より諸磯の浜へ御伴い申して御首を打ち奉らん為にて候、我等
如何様に思い候とも最早力及ばず、此上は御最後の御覚悟こそ然るべく候」と申すも力無
き言葉なり、姫は少しも騒ぎ給わず「覚悟は兼ねて定めたり、今更何をか驚くべき、さり
ながら一つの願いあり、迚も死すべき命ならば、荒次郎殿の御手に掛って相果てん、其由
荒次郎殿に申され候え」、武士「それは御頼みまでも無し、姫君の御首を打ち参らせんは
若殿荒次郎様が道寸公の仰せを受け給いしなり、されば若殿にはハヤ諸磯の浜に御出あり
て姫君を待ち給い候」、姫は悦びの色を現し「ナニ荒次郎殿の御介錯とな、それこそ望む
所なり、疾く疾く浜辺に案内せよ」と屠所の歩みのそれならで、最期を急ぐ姫君が人より
先に足を速めて諸磯の浜に赴き給う、浜辺には荒次郎、父の言葉に力無く、妻と定まる小
桜姫の首を挙げんとて独り汀に彳めり、夜は闇し、嵐も波も音断えて、物悲しき景色かな、