31 笈諸共(売ってたも)

 去程に小桜姫の御舟は、其翌日小淘の浜に着き給いけり、姫は舟より立出で、花水川の
川岸に暫しが程は彳み給う、此は先頃、三浦勢と小田原勢が川を隔てヽ対陣し、其時我身
も三浦勢の後詰としてあの川上に備えたり、今はそれに引かえて、国亡び城陥り帰らんと
するに家も無し、初めて出ずる憂き旅の行方は何処と定むべき、先ず此に立休らい、旅人
の噂を聞きて父の行方を尋ねばやと、松の根方に腰を掛け、旅人の来るを待ち給えり、そ
も此花水川は三浦・北条両家の境にして、川より西は小田原領、川より東は三浦領、今其
三浦方よりして此方へ来れる夫婦の旅人、背に物を荷い、其粧いは商人に似たれども、相
貌骨柄尋常のものにあらず、小桜姫呼留め「のう旅人に物申さん、其許等は物売る人か」、
旅人立留り「さん候、縁結びの末広を売って此辺りを歩く者にて候、末広一本召され候え」、
小桜姫は打按じ「ハテ縁結びの末広売とは噂に聞きし事もあり、過ぎつる頃に武州金沢の
城下には参りしか」、末広売「仰せの如く、或時は金沢にあり、又或時は三浦に在り、此
頃彼の地に合戦起りて物売る事もならざれば、今は余所へと急ぎ候」、小桜姫「扨只今は
金沢より来りしか、それとも三浦より参りしか」、末広売「三浦の本城網代新井の城下よ
り参りて候」、小桜姫「さあらば合戦の様子聞きつらん、両家の勝敗は孰れに帰せし」、
末広売「青野が原の一戦に楽岩寺勢打負けて、関東名代の勇婦楽岩寺家の小桜姫は三浦家
の嫡男荒次郎義意の為に生捕られて候」、小桜姫「扨其小桜は如何致せし」、末広売は妻
と顔見合せ物悲しき様子にて、「世に痛わしきと申すは小桜姫が御最期なり、荒次郎義意
と御縁組の約束ありしと聞きつるに、合戦の習とは云え、無情や昨夕諸磯の浜に於て御首
を打ち、其侭獄門に懸けられて候」、小桜姫は咽び来る涙を呑み込み給い「扨は愈々獄門
に懸けられたるか、痛わしの八重絹や」と口の内にて弔い給い「して楽岩寺種久は如何致
せしと聞きつるか」、末広売「されば金沢も落城し、種久殿は何処にか落ち給いしと申し
候」、小桜姫「扨其落ちたる先は如何に」、末広売は思案して俄に答えず、其身金沢の城
下に在りし石橋雷太郎と謀を合せて、種久を小田原へ落せしなれば、行方は確に知ると雖
も、人に告げては悪しかりなんと偽りの言を設け「我等深き事は存ぜねど、種久殿は当国
厚木の方に落ちられしと人の噂に申し候」、小桜姫「厚木とやらんは何処なるか」、末広
売「是より北に当り、馬入川の川上に十里ほど遡れば厚木にて候」、厚木に何の由縁かあ
る、扨も訝しき事なりと小桜姫思案に沈み給えば、末広売の女房熟々其御顔を眺め「見参
らすれば賤しからぬ御姿なるに、供人をも連れず唯一人、何とて今頃此辺りに彳み給う」
と子細を問われて小桜姫、俄に答の為し難く「妾は尋ぬる人あって此辺りに彷徨うなり」、
女房「年若き御身にて人を尋ね給うとは、思う殿御の御事なるか」、小桜姫「オーそれそ
れ妾は殿御を尋ねて家をば迷い出でたるなり」、女房「それには此縁結の末広を召され候、
思う殿御に逢い給わんこと此末広の功徳にて候」、小桜姫は心に思うよしありけん「妾の
望みは欲深し、一本ならで何本にても其許が所持なす末広をば笈諸共に買求めん」、女房
打驚き「それは扨不思議なる御望みかな、我等が所持なす末広をば皆悉く買い給いて、何
処に持ち行き給うらん、御所望とあらば末広は参らせんが、笈には外の荷物もあり、是は
参らせ難う候」、小桜姫「笈なければ末広にも用はなし、妾は笈と末広とを望むなり」、
女房「然らば良人に相談致すべし、是のう権平殿、客人が笈の御所望を仰せある、如何致
し候わん」、良人は妻を顧みて「折角の御所望故汝が笈を参らせよ、最早家路に程もなし、
末広も用なければ参らせよ」、女房「然らば笈の中の物を一つになし、末広を入れて参ら
せん」と負いたる笈を下に卸し、蓋を開きて末広を取出せば、下に込めたる小手・脛当・
太刀・刀さえ見えたりや、