小桜姫は先程より末広売の骨柄を只者ならじと思いしに、笈の中より小手・脛当・太刀
・刀なんどの現れたるを見て、屹と其側に立寄り給い「其許等は尋常の商人と思いしに、
斯る物を所持なすは何処の敵の間者なるか、包まず様子を語るべし」、末広売打笑い「間
者とは事々し、合戦繁き世中に旅より旅を歩き候えば、如何なる難儀に合わんも知れず、
武具の用意は其為なり、間者などと疑い給いそ」、小桜姫「イヤ其許等が骨柄世の常の商
人ならず、子細あって斯る姿に其身を窶すものヽ如し、詳に申さずば詮議致して語らせん」
と今の身の上をも打忘れ、思わず前に立掛り給う、末広売の夫婦も見構えなし「女人なり
と思いて優しく申すに詮議せんとは奇怪なり、そも御身こそ何者なるか、先ず其素性より
語り給え」、小桜姫は初めて心付き、実に実に我も世を忍ぶ身なり、用も無きに人の詮議
して我身の素性を知られてはならじと、俄に笑顔を作り給い「我は此辺りの者、余りに其
許等が骨柄の勇ましく見えたれば、故にこそあらんと思いしのみ、妾が用事は末広を買う
為なり、互に忍ぶ身とあれば、名乗り合うにも及ぶまじ、笈の用意出来たれば、早く末広
を渡し候え」と言葉優しく申し給う、末広売の夫婦は楽岩寺家の小桜姫を全く死せしと思
い居れば、それぞと心付く筈も無く「さらば御身は見知らぬ女、我等は旅の末広売にて互
に別れ候わん、唯不思議なるは御身此末広を買いて何事に用い給うぞ、笈重ければ然るべ
き所まで届け参らせ候わん、我等が心得に其用いられん方を語り給え」、小桜姫打案じ「イ
ヤ笈の重きは案じるに及ばず、妾は先にも申す通り、殿御を尋ねて此辺りに迷い出でしも
のなれば、其笈を肩に掛け末広を売り歩きて殿御を尋ねんと思うなり、はした無きとて笑
われな、是も女の真実から今より其許等が弟子となり、思う殿御に逢うまでは何処を宛と
定め無き、習わぬ旅の草枕、うきねながらの憂き思い、其うき節の竹の軸、縁を結ぶの末
広売と妾もならん覚悟ぞや」、末広売の妻は笈の中に多くの末広を納め、「さあらばこれ
を持ち給え、我等が此末広を売り候には、夫婦諸共末広舞をいたし、後に末広流しとて、
種々の芸をなし候、御身はめでたき女人なれば、舞の一手も心得て在すらん、あの川岸に
茂りたる笹を執って末広に結び、それにて舞を為し給うべし、仮の世渡りには面白き事に
候」と笈を姫君に渡しけり、小桜姫執って軽々と我背に負い「然らば教えの如くなして、
仮の世渡りと致すべし、此末広の功徳に由て、思う殿御に廻り逢なば、後に其許等に引出
物申すべし、互に廻る旅の路、復の逢瀬を待なん」と其侭花水川の河岸に降り給い、枝面
白き笹を手折り、それに扇を結付け、悠々として川上の方に立去り給う、末広売は暫く其
後姿を見送り「何れ此辺りに住居する賤しからぬ武士の娘ならんが、恋故には斯くまでも
身を窶し、笈の重きを苦にもせで、旅路に迷い出ずると見えたり」、妻「それは恋故、我
等は復君への忠義を立てん為、身を窶しての末広売、三浦領に忍び入って小桜姫の最期を
も見たれば、早く我君早雲公に此事を申上げ、又誘い寄せたる楽岩寺種久に其娘の最期の
有様を、さも痛わしく語って聞かせなば、彼の無念骨髄に入り、三浦家との合戦に死奮の
勇気を現すべし」、末広売「是も我君の御為なり、道寸既に金沢を攻め滅して、心は日々
に驕るなれば、我等早雲公に三浦征伐を御勧め申し、遠からぬ内に三浦家を滅して、相模
一円を我君のものとなし申さん」、妻「さあらば今の国境此花水の流れまで」、夫「御領
の中ばとなりぬべし」、妻「疾く疾く立って我君に」、夫「吉左右御知らせ申さん」と夫
婦共に立上り、小田原差して急ぎ行く、