道寸が火急の下知を受けて、佐保田河内守大に驚き「こは不思議なる仰せを承り候もの
かな、御武勇万人に勝れ、御孝心復世に類稀なる若殿をば、何の罪あって切腹を命じ給う」
と言葉を正して問い参らする、道寸怒りの声を発し「罪と云うは余の儀に非ず、彼小桜姫
が愛に溺れ、我を怨んで謀叛を企つるよし、斬って捨つべき者なれども、親の情けを以て
切腹を命じるなり、疾く我命を伝えよ」と仰せある、河内守更に動かず「それは讒者の言
にこそ候え、若殿に限って左様な儀を企て給うことあるべからず、又小桜姫が愛に溺れ給
うならば、失わぬ先に如何様とも為し給うべし、讒者の言に軽々しく天下の英雄たる若殿
を失い給わば、当家の御武運も是より衰え候わん、今暫く御猶予あって事の実否を質し給
え」、道寸愈々怒り「汝までが荒次郎の味方致すこと心得ぬ、荒次郎を失わば当家の武運
衰えんとは誰に向って申す言葉なるぞ、我苟も当城より起って相模半国の主となり、今は
金沢を伐従えて武蔵の地まで我領分を広げしものを、何ぞ荒次郎の力を借りん、讒者の言
とは奇怪至極、汝も荒次郎に一味せしか」、河内守顔を揚げ「我君には物に狂わせ給うか、
御孝心深き若殿が五逆の罪の第一たる不孝の大逆罪を犯し給うと思し召され候か」、道寸
「ナニ、何と申す、汝は言葉を巧にして此道寸を大逆の罪人と罵るか、我こそは養父時高
公に叛きたるぞ」、河内守「サア其事は今更申すも詮なし、若殿もし我君に倣い給わば、
我君は一日も当城に身を置き給うこと叶うまじ、城中の諸士多く心を若殿に寄せて候、若
殿が御孝心深ければこそ我君も安泰に坐すなり、能く御賢察あって然るべく候」、道寸刀
に手を掛けて立上り「言わせて置けば無礼の雑言、汝より先に斬て捨てん」とツカツカと
前に進みける、河内守首を延ばし「御手打とあらば存分に召され候え、河内守は命を惜ん
で非道の御下知を伝うるものに候わず、さりながら今若殿を殺し給わば、城中の武士一人
として我君の御下知に従うものは候まじ、御当家の運も是までなり、疾く御手打に遊ばさ
れ候え」と覚悟定めて死諫する忠義の心ぞ頼もしき、同じ老臣たる大森越前守此体を見兼
ねて中に入り「我君暫く御怒りを休め給え、まことに河内守が申す如く、当城の武士若殿
に心を寄せたるもの多く候、我等御下知を伝え参らせて、若殿神妙に御切腹あらばそれま
でなれども、もし御下知に従い給わず、急に味方を新御殿に聚めて一大事を起し給わば、
それこそ由々しき御大事にて候、唯何ともして若殿を一旦当城より御退けあらば、事の実
否も跡にて分り候わん、切腹の御下知こそ思しかえられて然るべく候」と諫る言葉は似た
れども、其心は同じからず、道寸も斯く言われて俄に怖気立ち「然らば荒次郎を勘当致さ
ん、疾く当城を立退かしめよ」、越前守「それは兎も角も計らい候わん」と河内守を促し
て、共に御前を退きける、
荒次郎義意は我が身の上に斯る災いのあらんとも知らず、独り双棲の楽しみを分たんと
急に建てたる新御殿なれば、目に触れ耳に入るものは皆思いの種ならぬは無し、二つ比び
し殿造り、一つは妻の居間なるものを、空閨人無くして夜自ら寒く、孤衾夢冷にして襖に
空しく鴛鴦の影を写す、庭の青柳糸を乱し、卯の花垣に咲き出でて、四方の景色めでたき
も、誰と共にか眺め明さん、仰げば見ゆる宝蔵山、昔床しき桜の御所に春の名残の遅桜、
せめて一つも残るならば、初花よりも愛でんものを、其遅桜小桜も散りて跡なき夏木立、
青葉交りの恨めしき、イヤイヤ煩悩の絆には心をば迷わさじ、憂うる所は我家の行末なり、
父君小敵に打勝って心益々驕り給わば、早雲めに隙を見透かされ家の大事となりもせん、
如何にもして父上の御心を正し参らせ、今の内に早雲を防ぐべき手当を為さんと荒次郎、
千々に心を砕きける折柄、近習の一人馳せ来り「只今奥より大殿の使者として大森・佐保
田両人が参り候」と言上す、荒次郎不思議に思い「我身に用事あらば父上が自ら召し給う
べきに、老臣二人を使者に立て給うとは何事ぞ」と奥へ呼入れ、使者の趣を尋ねける、