やがて末広舞は始まりぬ、翩々として胡蝶の花に狂う如く、繚乱として鴛鴦の水に遊ぶ
に似たり、固より諸芸に堪能なる姫君にて坐せば、其手振りのしとやかにして御姿の優し
く見え給うこと、譬えば三保の松原に天人が羽衣の舞を奏するも斯くやと思うばかりなり、
家の主人家忠は唯見惚れて茫然たりしが、襖の内なる義意主従、看るも憂の種なりけん、
菊名左衛門重氏荒次郎を顧み「如何に我君、小桜姫の御姿を見奉れば、此頃の憂いに御面
影も痩せ給い、髪はおどろに振り乱れ、世に浅ましき御有様、昔桜の御所の合戦に散り敷
く花の木の本に、大薙刀を以て囲みを破り給いし其時の御風情に似もやらず、今は御手に
在るものは、笹の小枝に白地の扇、里人の機嫌を取って斯る舞をばなし給う、世が世にて
坐さば、今頃は我君の奥方と仰がれ、多くの男女に侍かれ給い、出るも入るも御供揃い、
優しき舞の御姿なんどを我等さえ容易に見奉らん事叶わざるべきに、今は此辺りの里人に
まで末広舞の一曲と望まれ給う御身こそ、御痛わしき限りにて候、姫君が斯くまで御身を
窶し、此辺りに彷徨い給う事は、御父種久殿を尋ね給うと覚えたり、種久殿の行方は知れ
ずとも、我君が此に御座ある事を知り給わば、如何ばかり嬉しく思い給わん、我君と姫君
とは最早御結納までも済み給いし天下晴ての御夫婦なり、人目を憚り給うはさる事なれど
も、当家の主人は心知りたるものにて、外に漏すべき憂いはなく候間、御心強き事をのみ
仰せられ給わで、そと此処へ御招きあり、人知れず御対面あらば姫君がさぞ悦び給うらん、
某竊に此旨を主人家忠に申伝え候べし」と立たんとするを荒次郎制し給い「イヤ対面は無
用なり、父の許しのなき内は晴て夫婦と云い難し、今の身の上を以て私に敵人の娘に逢わ
んこと、父君へ対して恐れあり、唯此侭に別れ候わん」、重氏「さりとては余りに御心強
し、せめては某より余所ながら我君の事を姫君に御知らせ申すべし、種久殿の行方分らぬ
内は、姫君こそ世に援なき御身の上にて候わずや、少しは哀に思し召し給え」、義意「イ
ヤ其儀も無用たるべし、汝より知せんこと我身が対面なすに斉し、彼も尋常の女人ならで
世に勝れたる勇婦なり、援けなきとて何をか痛まん、彼は父をこそ尋ぬべし、我身に逢わ
ば心挫けん、対面せぬも姫の為、ハヤ暇を取らせ候え」
此時舞も終りぬれば、主人の家忠姫を側近く招き「如何に末広売、其方の有様を見れば
尋常の狂女にあらず、如何なる子細あって斯る姿になりけるか、客人の、イヤ我が身の慰
みにて候なるに包まず語って聞かせ候え」、末広売打笑い「こは思いも寄らぬ仰せかな、
妾は常の末広売、舞の手振は生活の為なり、何とて子細の候べき」、家忠「イヤ如何に申
すとも生来の末広売とは見え候わず、素は然るべき身の上にてありつらん、生れ何処、名
は何と」、末広売「妾には名も無けれども、世の人が末広売の狂女と仰せられ候えば、狂
女こそ名にて候わん、狂女の事故国も故郷もあらばこそ、昨日と過ぎ今日と暮して飛鳥川、
明日をも知らぬ身にしあれば語るべき事も無し、あら面白の浮世や」と笑う姿の狂わしさ、
主人も笑って打頷き「実に実に狂女の名こそ心得たり、さりながら花に狂うは胡蝶の夢、
人は月にも浮れ出で酒にも狂う世の習い、狂とは同じ狂ながら、其方は何の為の狂女なる
ぞ」、末広売「巧に問わせ給うかな、斯くては言わで叶うまじ、妾の狂は其花よ、花の盛
りの桜の御所に散らす嵐の宿りは何処、我に教えよ行きて怨みんと古人の歌までも思い知
られて哀れなり、今此御庭を見申せば、垣に卯の花池には藤の波も、照添う由縁の色の由
縁尋ねん方も無く、心ばかりは深見草、汀に咲ける山吹の花はあれども実こそ無き、浮世
に狂う狂女に候」、家忠「扨も狂女の謂れ面白し、花を惜むならば復来ん春を待つべきに、
心短かき物狂いかな、いでいで此上は某が是非を論ぜず其方の力にならんほどに、今は唯
身の上を語り候え」、狂女は俄に進み寄り「妾に語れと仰せあらば、御身より先ず語り給
え、今御内に坐す客人とはそも誰々にて候や」