襖は俄にたち切られたり、主人の家忠当惑し「我家にさせる客人もあらざるに、何を種
とて斯る事をば尋ぬるぞ」、小桜姫「客人無しとは偽りなり、先程よりの御身の様子、度
々客人と口走り給いしは、由ある人を此家に隠蔽い置かるヽと覚えたり、我に情けの深き
客人、其御苗字をも伺い、又御顔を見奉りて厚き御恩を謝し申さん、今日を名残の我身な
れば、明し給うとて何の苦しかるべき」、主人「それは其方の推量違い、我家に怪しの人
もあらざるに、怪しめられな末広売」、小桜姫「扨は何処までも御包みあると覚え候、人
が包まば我身も復包み言の葉いざさらば、名残は此に尽きねども、ハヤ御暇申さん」と笈
を担い、笹を携え心残して出で行く、さりながら姫は不審の心晴ず、良人と定むる荒次郎
が此家に在りとは知ざれども、情の深き客人とはそも如何なる人ならん、父の由縁か金沢
城の落人か、よしそれならば人目を憚る事ありとも、我身まで憚りて対面なさぬ事はある
まじ、もしや三浦道寸が御内のものにて楽岩寺の残党を尋ね、害を加えんその為か、兎に
も角にも此客人の素性を知らざれば心安からず、暫く当家の辺りに忍んで内の様子を探ら
ばやと、卯の花垣に身を潜め、息を殺して窺い居たり、折から表の方より此家に入り来る
五六人の百姓ども「如何に厚木大膳殿に御意得申さん、我々は当国一の宮の辺りに住居す
る者にて候が、此頃天神が原に狼の一群出没して土地の者を悩せしに、昨夜御武家両人一
の宮の渡しを渡って天神が原を通られ、其時御手練を以て数の狼を悉く斬り尽し給いたり、
何処の御方かは存ぜねど、土地の為に患を除き給いし御恩あれば、其御礼を申さん為、是
まで尋ね参り候、人の噂に御武家両人は御当家に御入りありしよし、数ならねども我等が
志を其方々に御伝え下されたく候」と土産の品々取出して申しける、主人家忠、扨は荒次
郎殿の御武勇を以て狼を退治召れしかと初て其事を聞けるが、さあらぬ体にて百姓どもに
向い「成程旅の御武家両人昨夜当家へ参られたるが、急ぐ事ある由にて今朝早く御立あり
たり、されども狼を退治せしとの噂を聞ざれば、其人々にては無るべし、余の所を尋られ
候え」、百姓「イヤ確と此家に御入有し事を当地の者より聞きて候、一人の御武家はまだ
御年若なれども身の丈抜群に勝れ給い、腰に四尺余りの大太刀を佩せられ、如何にも当世
の勇士たるべき姿あり、又一人は其御武家の家臣と見えて年頃四十にも近かるべし、是も
威あって猛からぬ武夫なりと当地にて其姿を見たる人の噂、我等一の宮の渡守に尋ね候も、
矢張り其の如き御姿なるよしに候えば、御当家へ御入りありし人々に相違なし、ハヤ御立
とあらば是非もなし、何処の方へ御立出でにて候や」、家忠「火急の事故行先も伺わざり
し」、百姓「扨は惜しき事共かな、御行先の知れもせば跡より追着き申すべきに、せめて
は御苗字を伺い、土地のものヽ心得にもなし申すべし、何処の御武家にて名は何と仰せら
れ候や」、家忠「固より知りたる人にてもなし、唯一夜の宿を貸したるばかりなれば、名
も聞くことを忘れたり、斯る勇士と知らば委しく尋ねて置くべきに」、百姓「それは愈々
力なし、狼の事に就ては其以前にも怪しき女あり、末広売の狂女夜更けて唯一人其原を通
り候が、跡にて見れば猛き狼数多く原中に打殺され居たり、狂女の武勇なるか、それとも
鬼神が狂女を助けて狼を打殺せしか、狂女に子細を尋ねばやと思い候、今も末広売の狂女
此辺りに居り候か」、家忠聞て打驚き「それは殊更惜しき事をなしけるよ、其狂女今迄此
庭に末広舞を舞い居りしが、少し以前に立去りたり、狂女の事なれば何処へ去りしか詮議
せん便りもなし」、百姓ども互に顔を見合わせ力を失いし体なりけるが、其中より賤しか
らぬ姿の者一人進み出で「我等が御領主北条早雲公は世の勇士を愛し給い、もし領内に武
勇の人の通るあらば必ず小田原へ召連れよ、褒美は多く取らせんと我等にまでも御下知あ
り、されば今の御武家両人、又は末広売の狂女なんぞを小田原へ召連れ候わば、早雲公も
さぞ悦び給いて厚く御饗応あるべきに、もし其人々の再び御当家に立寄られなば、必ず我
等が方へ知らせ給え、悪しくは計らい申すまじ」と言葉を残して立去りける、垣の外には
小桜姫一伍一什を立聴して、此時思わずホッと一息、