46 米炊く業(知つるか)

 荒次郎義意声高く「やあ左衛門、我等末広に用はなし、疾く其女を立去らしめよ」と申
しければ、余りの事に小桜姫我を忘れて走り出で「こは情けなし荒次郎殿、知らぬ人だに
妾を憐んで末広を買うものある中に、何とて御身は斯くばかり御心強く坐すぞ、せめては
末広の一本だも妾が為に求め給え」と御袖を顔に当てヽ義意の前に泣き伏し給う、重氏も
其心を察し「如何に我君、人里ならば余所の目を憚り申す事あれども、此は浮世を離れた
る深山の中の一つ屋なれば何の苦しかるべき、今日より姫君を此庵室に置かせ給え」、荒
次郎言葉を和げ「我身とて情けを知らぬものならず、さりながら姫と我とは敵味方なり、
我身父の勘気を蒙り深く慎みてあるべきに、人目無ければとて敵人の娘を側に置かん事、
不孝の振舞これに過たるものはあらず、さなきだに讒者の言は、我身に覚えなき事までも
種々に造りて父君の心を迷わすなるに、もし我自ら身に覚えある落度を為さば、讒者は如
何に父君に訴え申さん、殊更一旦父の命に依り諸磯の浜にて首を打ち、獄門にまでかけた
る小桜姫の尚此世に生残りて我身の側に在りと云わば、父君は如何ばかり御憤り坐さん、
八重絹を身代りとして父君を欺き参らせしこと是我身が不孝の一つなるに、此上再び不孝
の事を累ねなば、我身は大逆の罪人なり、人の心を知りながら余所に過ごすも浮世の義理
ぞと思えかし、如何に小桜どの、イヤナニ小桜姫は諸磯の浜にて死したれば、今は見知ら
ぬ末広売の女、斯る山里に彷徨うて人の心を苦めんより、早く種久殿の行方を尋ねて親へ
の孝行を尽されよ」と、理解を説いて論しければ、小桜姫今は返す言葉も無くサメザメと
泣き沈み給いけり、良ありて顔を揚げ「アヽ是非も無し是非も無し、兎ても角ても叶わぬ
願い、結ぶ縁の末広ならで、末広からぬ狭き此身を何処にや寄せ申すべき、人の言葉に父
の行方も此厚木とこそ聞きたれば、此辺りより遠き事は候わじ、然らば妾も此山の麓に棲
家を求め、或は里人に末広を売て父上の行方を尋ね、又或時は此山に登りて余所ながら御
身主従を訪い参らせん、如何に荒次郎どのヽ心強しとて、よも末広売の生活迄御妨げは召
されまじ、さらばとよ左衛門殿、妄に庵室を騒がせ参らせし罪は宜なに御詫あれ、暇申し
て出るなり」と再び笈を取って肩に掛け、笹の小枝を打振りて「末広召せ、縁結びの末広
を召され候え」と呼わりながら出で給う、荒次郎其姿を見送り黙然として立ちけるが、小
桜姫は柴の扉に立寄りて竊に後ろを顧み給えば、鬼神を欺く荒次郎の両眼より露か涙か一
雫ホロリと下に落ちたりけり、小桜姫思わず其場に倒れ「アヽ勿体無し荒次郎殿、お怨み
申せしは妾が誤り、君が情けの深きこと今ぞ初めて身にしみじみと心に悟り申したり、御
言葉を伺えば君が心の苦みは、妾が思いの切無きに増すとも劣ることは無けん、実に難有
き御情け」と知れば尚更心残り、柴の扉を立ちかねて其侭其処に休らい給う、
 荒次郎は思い切って内に入りぬ、山奥にて猟りたる獲物を取出し、重氏を対手に午餉の
相談「如何に重氏、獲物は炙りても食うべきが、午餉の糧をば如何にせん」、重氏「米は
大膳が方より贈られて候、某これをば糧に炊き申すべし」、荒次郎「汝は米炊く業を知り
つるか」、重氏「イヤ一向に存ぜず候、人の噂に先ず米を洗い水に交ぜて釜に入れ、下よ
り火を燃すとこそ承り候、人の成る業なれば某にも出来ぬ事は候まじ、薪は取りてそれに
在り、一つ試み候わん」、荒次郎「あら面白き竈事、我は肉を炙るべし、汝は米を炊き候
え」と三浦家の嫡男に菊名の城主が勝手働き、柴の扉にて小桜姫ホヽと笑い出し「如何に
万夫不当の勇士でも米炊く事は能うまじ、妾も昔は知らぬ身の、此頃手馴れし水仕事、そ
と走り入って手伝い参らせんか、イヤ我君の叱り給うべし、是は一旦麓に降り、後に主従
御二人を助け参らすべき道もあり」と其侭庵室を立出て麓の方へ降り行く、