47 天晴の飯(御覧候え)

 斯くて翌日となりけり、荒次郎は昨日の如く弓矢を携えて山奥に分入ぬ、菊名左衛門重
氏独り庵室に留まり、習わぬ業も君の為と水汲み・薪を拾い、竈の前にて立働く、折から
表に来かヽる小桜姫「如何に左衛門どの、我君は御不在にて候か」、重氏「さん候、今日
も我君は獲物を求めんとて弓矢を携え山奥に入り給いたり、御不在の内は苦しかるまじ、
先ず此方へ入らせ給え」、小桜姫「妾も君の御不在を測りて参りしなり、許されよ左衛門
どの、やヽ竈に火を置るヽは米炊く為か」、重氏「さん候、某千騎・二千騎の兵を率いて
敵陣を破るの道は心得て候えども、米炊く業に馴ざれば昨日も殆ど困じて候」、小桜姫「実
に実に昨日は御身が米を炊かれしよな、如何なる飯の出来て候」、重氏「扨某が炊きし米
といっぱ、半は紅く半は黒く、上は未だ米なるに下は焼米と変りて候、世に米炊く業ほど
六か敷ものは候まじ」と当惑顔に申しければ、小桜姫打笑い「妾とて初めはさせる米も炊
きしよな、されども寄辺無き身の唯一人、此辺りに彷徨いて世の艱難を知りし甲斐に、今
は水仕の業一通り心得たり、御身等主従が定めてさせる業に苦み給わんと思い、今日は麓
にて糧を造り是まで持ちて参りたり、妾の造りしものと思し召せば我君も憚り給わんほど
に、御身が炊きしと申上げて、此飯を我君に参らせられ候え」と負いたる笈を下に卸し、
蓋を開いて中より飯櫃取出し、重氏が前に差置けり、重氏篤と其飯を眺め「是は美事なる
米の飯にて候、金沢の城主楽岩寺下総守の御息女が自ら飯を炊き給うとは、扨も御痛わし
き浮世かな、して姫君には何処に身を寄せられて、斯る便りを得給いし」、小桜姫「妾は
此山の麓に小さき家を求め、其処を棲家と定めたり、是よりは何事も妾が竊に我君の御用
を勤め参らせんほどに、左衛門どの御身が計らいにて我君へ知れざる様、妾に用事をさせ
て給え、今日も帰らん時に此飯櫃に米を容れられよ、明日は再び飯となして此庵室へ持ち
来らん」、重氏悦び飯櫃を開いて中の飯を取出し、其代りに米を納れ「さあらば姫君の御
志故米をば納れて候なり、我君とて決して姫君の御心を知り給わぬにあらず、唯御父道寸
公への憚りを思し召すなり、後に至り姫君が斯くまでの御心遣いを聞え上げなば、さぞ満
足に思い給わん、何事も唯時節を御待ち候え、今に某等我君を御勧め申し、当厚木の領主
と為し参らせなば、必ず姫君を御迎え申して、我君の奥方と仰ぎ奉らん、暫しは艱難をも
忍び給え」と慰むる言葉の中に、思わず我が胸中の望みを漏す、姫は谷間の鶯が春の便り
を得し心地して「ナニ我君を当処の領主に為し参らせんとは、そは左衛門殿一人の心なる
か」、重氏「イヤ某一人の望みには候わず、当処は管領家の支配なれども、管領家武威衰
えたれば、然るべき領主を立んものと厚木大膳を始め、此辺りの者の願いにて候」、小桜
姫「聞くも嬉しき事どもかな、早く其時節の来れよかし、妾も一臂の力を添え、もし隣国
と合戦の始まらば、不肖ながら一方の大将を承り、敵を破って我君の領地の末を広めなば、
それこそ末広の功徳とも申すべし、笹の小枝を打振って末広舞を奏せんより、大薙刀を携
えて万馬の中に行くに如かじ、左衛門どの早く其事を計われよ」と心は勇む武勇の姫君、
折から重氏目を挙げて奥山の方を望み「只今こそあの山の迫りを我君の御帰りにて候」、
小桜姫「扨御帰りとあらば妾も立退き申すべし」、重氏「名残惜しの御事や」、小桜姫「是
も時節と諦めて人目にかヽらぬ其中に」と急ぎ麓へ降り行く、入れ代って荒次郎、獲物を
重氏の前に置き「午餉の用意は出来てあるか」、重氏自慢顔に飯櫃を持ち出し「御覧候え、
今日こそ天晴の飯の出来て候」