庵室の主人が帰れりと聞いて、荒次郎義意自ら表に出で見るに、年の頃六十にも余るべ
し、頭の髪は白くして銀の糸を植えたる如く、竜髯鶴骨稜々として身に道服を纏い手に梓
の杖を携え、飄然と門外に立ちたる老翁あり、荒次郎慇懃に会釈なし「扨は此庵室の主人
にて渡り給うか、我等は此山に来り人住まぬ庵室と心得て暫く御宿を借りて候、主人の御
帰りとあらば何処へなりとも立退き申すべし、先ず此方へ御入りあれ」と老翁を誘い内に
入る、内には菊名左衛門・初声太郎両人、もし我君に無礼を為すものあらば斬て捨てんと
見構えたる体、いと厳重に見えたり、老翁座に就き、熟々三人の姿を眺めて、荒次郎に向
い「方々は此山に入って未だ程遠からずと覚えたり、我庵室を出でたるは昨日今日と思い
しに、仙家の日月速くして今は三年の昔となりぬ、暮れてこそ人住む庵と知られけれ、片
山かげの窓の燈火、我が庵室に在りし時だにも人住む庵と見えざるに、住み荒したる一つ
屋をば主無きものと見られしも理なれ、我此に帰りしとて客人を立退かしめ、独り住まん
と云うにはあらず、方々も百年の栄華を捨てヽ斯る山中に入られしは、世を厭いたる人々
にやあらん、山に住ば我も同じ世捨人、世をだに捨てたれば主人も客も無し、江山風月本
主無しと申すこともあり、志の合いたるは同じ隠者の友にして、言葉敵の多からんも面白
し、我一人殖えたりとて構わず此に住み給え」、荒次郎「扨は心広き主人かな、我等俗人
の身として仙家の住居を妨しこと罪多し、余所に移りて庵室を御渡し申さん」、老翁「イ
ヤさのみ心を苦め給うな、我身は浮雲流水の如し、朝に出でて暁猿を訪い、夕に去って夜
鶴に伴う、固より一処不在なれば主人とな思いて心を置き給いそ」、荒次郎「さるにても
不思議なる老翁かな、御身は如何なる人にして、日頃何処に棲み給う」、老翁「棲む所あ
るほどなれば来るべき謂れ無し、浮世を仮の宿とせば天地皆我が宿なり、飄然として来り
飄然として去る、我すら如何なる人たるを知らず、方々は何者と見られたるや」、荒次郎
「されば仙か人か隠者なるか、何れ浮世を離れ給う人と覚え候」、老翁「浮世を捨つる事、
讙しきに交わるも山に入って孤月を眺むるも、皆是浮世の内ぞかし、仙とは山に迷えるも
の、俗とは里に迷えるもの、悟ると云うも迷いの一つ、迷うと云うも悟りの一つ、観ずん
ば世は皆江漢の浮萍の如し、方々こそまだ年も若きに斯る山中へ入り給いしこそ如何なる
子細か語られよ」、荒次郎「イヤ子細も候わず、我等も迷いの一つにて浮世を迷い出でた
れば、斯る深山に入りしなり、斧の柄は朽ちるとも、仙家の長き日月に浮世の事を忘れた
く候」、老翁「イヤ御身が浮世を忘れては相済むまじ、天の英雄を生ずるは民の疾苦を救
い、世の動乱を鎮めん為なり、然るに英雄自ら世を捨てなば、是天に負くと申すもの、御
身が今の若さに浮世を忘れて何かせん」、荒次郎「それは世の英雄をこそ申すべし、我等
は有るに甲斐なきもの、世を捨てたりとて天の咎めもあるべからず」、老翁「イヤ御身は
英雄と名乗らねども、今東八カ国随一の大将は御身を措きて何処にか求めん」、荒次郎「こ
は筋無き仰せかな、某を誰と思われて斯る事をば云う」、老翁「御身を誰とか思うべき、
武名天下に隠れなき三浦荒次郎義意君よ」と語る言葉に重氏・行重、見構えなして立上り
「我君と知りたる御身こそ何者なれ、名乗らずば目に物見せん」と左右より詰め寄する、
老翁少しも騒がず、