松の嵐・猿の声、それらの音ならでは訪うものも無き庵室に、見るも嬉しき故郷人の音
信は如何ならん、荒次郎義意膝を進め「如何に初声太郎、汝は何処より参りしぞ」、行重
畏まり「某は三浦表より参りて候」、重氏傍より「扨如何にして我君が此に御座ある事を
知り給いし」、行重「それは当国天神が原に於て、百千の狼を唯二人にて斬尽したる武士
ありと世の噂、隠れ無ければ正しく我君と存じ、厚木へ参りて大膳家忠に君が御座所を尋
ねしなり」、荒次郎は故郷のこと心に掛り「扨只今は何の為に来りたるぞ、三浦表に変り
し事は無きか、父上・母上は如何に坐す、弟虎王丸も息才なるか」と親を思い、兄弟を思
う御心こそ優しけれ、初声太郎思わずも袖を絞り「某が参りたるは其事を我君に申上げん
為にて候、我君三浦を出で給いてより、御側室牧の方心の侭の振舞あり、忠義の諸士竊に
眉を顰め居たる処に、此度遂に道寸公を勧め奉り、御痛わしくも罪無き我君を廃し参らせ、
御次男虎王丸を以て御世継と定め給いて候、老臣佐保田河内守を始め、某等一同身命を抛
って道寸公を諫め参らせしが、讒者の言に御心曇らせ給うに依り、更に御悟りも無く、さ
るに依て忠義の諸士一同心を合せ、此上は三浦を立退き我君を尋ね参らせて、何処にても
仕え奉らんと、俄に騒ぎ立ち候を某先ず説き宥め、一旦我君の御気色を伺い、其上にて兎
も角も計うべしと、諸士一同の忠節を思し召し、其望みを御許しあらば城中の武士百余人
明日にも此処へ参るべく候、今天下は乱国なり、我君の御武勇を以て忠義の諸士を従え、
何処にてもあれ、主無き国を攻取り給わば、遂に天下をも我君の物になし給うべし、既に
小田原の北条早雲は昔主従僅か六騎にて駿河辺りに浪人せしを、一たび時を得て今は相模
半国の主となりし例もあり、我君も御心を決して諸士の願いを許し給え」と申上ぐる心は
重氏の好き援けなり「行重どの、某も最前より其事を我君に勧め参らする処にて候、本国
の様子は知らざれども、当所の豪族厚木大膳が我君を当地の領主と仰ぎ奉り、四隣を征伐
して御武名を輝さん望みなれば、某も度々我君に一大事を起し給えと申すなり、本国の諸
士に左様の心あらば尚更の幸い、御世継定まりて御勘気の解けん望みは無し、それにても
我君は此山中に埋木となって朽果て給う御所存に候か」と声励まして勧むるも君を思う忠
義の心、初声太郎も言葉を揃え共に勧め参らせける、荒次郎騒げる様子も無く「兄を廃す
るも弟を立つるもそれは親の心なり、何をか怨み何をか悲しまん、然るに城中の諸士が我
身を慕うて事々しき振舞を為すこと心得難し、諸士は我が臣下に非ず、父君道寸公の御家
臣なり、道寸公虎王丸を立て給わば、虎王丸に忠義を尽すこそ家臣たるものヽ道なるべき
に、国を捨て君を捨てて我身に仕えんとは心得違い、左様なる心得違いの武士は我身とて
欲しくもあらじ、まこと我身の為を思わば、父君に仕えて涯分の忠節を尽すべし、是我身
が望む所なり」と飽くまでも孝道を思し召して両人を諭し給う、両人涙を流し「斯くまで
厚き御志、世に類とてあらざるべきに、如何なれば道寸公日頃の御気質にも似合わせ給わ
ず、讒者に迷いて此君をば斯る山家へ捨て給うと、思い返せば梓弓の直ぐなる道は無き世
かな、日月未だ地に落ちざれば、此君をこそ世に出して末世の鑑となし参らせん、あわれ
本国尉が島明神、又は鶴が岡八幡宮の神徳を以て、我君の御武運を開かせ給え」と心の中
に祈念する、臣子の情も哀れなり、此時表に声あって「庵室の内へ物申さん、誰に断って
此隠家を奪いしぞ、我は庵室の主人なり」と呼わる声の聞えたり、