53 母の遺言(斯の通り)

 小桜姫は幼き人の手を惹きて庵室の前に来り「誰か渡り候か、三浦表より虎王殿の御参
りにて候」と声高く呼われば、「ナニ虎王の参りたるか、そは不思議なり」と荒次郎自ら
戸を開いて立出でたり、虎王丸走り寄り「珍しや兄上」と袖に縋って不覚の涙禁め敢えず、
荒次郎も懐かしさと訝かしさに其手を執って内に入れ「虎王丸が唯一人、斯る山路へ尋ね
来しこそ不思議なれ、国元に変りたる事にてもあるか」、虎王丸悲し気に「変りたる事の
あればこそ是まで遙々参りしなり、兄上驚き給うな、母上には御自害遊ばしたり」、荒次
郎「ナニ母上の御自害とな、母上とは其方の母牧の方か」、虎王丸面を揚げ「是は兄上の
仰せとも覚えず、牧の方は我身を生みたれども父上の御側室なり、母は正しく秋谷の前」、
荒次郎「然らば我が母」、虎王丸「兄上の母は我身の母上、其母上が御痛わしくも御自害
ありし子細を物語り候わん、是に初声太郎の見え候えば、荒増は御聞きあるべきが、此頃
父上如何なる思し召しにや、兄上を廃して我身を世継に立て給いたり、然るに家臣の中に
不服の者あって、初声太郎それが為に不意に国を立退きしと専ら噂なし候ところ、申すも
苦しき事ながら、牧の方の計らいとてやらんにて、母上を新御殿へ押籠め参らせたり、我
身は母上の御大事と心得、牧の方の留むるを聞かず、独り新御殿に御供申して母上を慰め
参らせしが、我身の隙を見て母上俄に御自害あり、我身驚き駆け付けて、是も牧の方と我
身の事より起りしなれば、申訳の為切腹せんと既に刀を抜きたるに、まだ事切れぬ母上が
苦しさを堪えて御留めあり、妾が自害は決して其方親子を怨むにあらず、妾は疾くより死
なねばならぬ子細あり、固と道寸公は御養子にて妾が父時高公を攻め殺し給いたれば、良
人は即ち親の讎、其時妾自害為さんと思いしが、人々に留められ甲斐なき命永らえしも、
家の嫡統たる一子荒次郎を守り立てヽ、天晴れ三浦家の血脈を後に残さん所存なり、然る
に今は荒次郎さえ身を退き、妾の願いも水の泡となりたれば、時後れしが亡き父への言訳
に自害致すとの御物語り、さあらば猶更我身は生き難し、我身死せば父君も必ず兄上を迎
え給わん、切腹御許し下されと申せしに、母上尚も留め給い、其方の志は妾も過分に思う
ぞよ、夫程の志あらば死ぬる命を永え、兄荒次郎を尋ね出し、必ず三浦の血統を立てよと
妾の遺言を申し伝えよ、もし兄上の御行方俄に知れざれば、姉上を尋ね出して力と頼み参
らせよ、其方が姉上と申すは荒次郎の妻小桜姫なり、姫は諸磯の浜にて獄門に掛けられし
と云うも、それは身代りの首にして、まこと姫は菊名左衛門が計らいを以て命を助け放ち
しよし、されば必ず近国に忍びてあらん、姫は天下の勇婦にて、荒次郎に似合わしき妻な
れば、必ず共に相助けて仲睦まじく添い遂げよ、是は妾の願いなる、兄上を先に尋ね出す
も、又姉上に早く面会なすとも能く妾が心を言伝えよと、呉々も我身に御遺言あって、遂
に空しく果て給いて候」と、聞くより荒次郎は忍び兼ねて御顔を袖に包み給えり、重氏・
行重、又は庵室の主人まで共に涙に暮れ居たり、小桜姫は我を忘れて此処に入り来り、虎
王丸の側に進む寄りしが、荒次郎これを見れども我が現在の悲しさに敢て咎もなさヾりし、
虎王丸涙を払い「扨こそ兄上、我身は独り城を出で、兄上の御行方を尋ね参らせしに、人
の噂に此山をこそ仮の御隠家となさるヽよし聞きたれば、馴れぬ旅路をようようと是まで
参り候なり、兄上の御隠家は聞きたれど、姉上こそ何処に坐すならん、まだ御顔も見知ら
ねば、早く御目に掛りたし、兄上は姉上の御行方を御存知にて候か」と聞く人よりも聞か
るヽ人、心は如何に切なかりけん、