54 互の心(いじらしや)

 妾こそ御身が尋ぬる姉なりと小桜姫は名乗りもしたし、又荒次郎始め人々は、姫こそ其
処に居給うなりと語り知らせもしたけれど、語り難きが浮世なりけり、荒次郎虎王丸の背
を撫で擦り「姫の事は後に知るよしもあらん、其方が母上の遺言を守り遙々尋ねて来りし
こと神妙なり、さりながら其方が城に在らずば父上がさぞ悲み給うわん、其方は父上の愛
子なり、母上への義理は立ちたれば、是より再び本国に帰り、父上に孝行を尽すべし、如
何に初声太郎、汝は国へ帰るべき身なれば、虎王丸を守護して父上の御許へ送り候え」、
太郎の答えよりも虎王丸先ず怨めし気に兄の顔を打守り「こは情け無し兄上、我身が遙々
此山へ尋ね参らせしは、亡き母上の御志を立て、兄上をこそ本国へ御帰し申し、旧の通り
三浦家の御世継となし参らせん為なるに、兄上が此山を出で給わずば我身も御側に在って
弓馬の道を承り、又母上の御遺言の如く、心に掛けて姉上の御行方を尋ね申すべし、何卒
御側に置き給われ」と願う心の殊勝なる、荒次郎も其志を感じければ、態と荒々しき声を
なし「聞分無きか虎王丸、我身も国を立退き、其方も亦城を出でぬれば、誰か父上に御孝
行を尽すべき、其方が帰るこそ父上の御心に叶なり、疾く三浦へ戻り候え」、虎王丸「イ
ヤ兄上こそ帰り給え、兄上が御立退きありて、三浦家の武威も衰えて候、まこと御孝行を
思し召さば、兄上こそ父君を守護し給え」、荒次郎「我身は父の御勘気を受けたる身なり、
帰りたくも私には帰り難し」、虎王丸「その御勘気は我身が死を以て父君を諫め参らせん、
必ず其事を案じ給うな」、荒次郎「イヤ強いて父君を諫め参らするは不孝なり、何事も父
君の御悟りあって御心を釈くる時節を待つべし、其方こそ先ず帰り候え、帰らぬとあらば
片時も此庵室に置きがたし、何れへなりとも立ち去れよ」と声励まして叱りける、虎王丸
ヌックと身を起し「心得て候、生中に我が身のあれば父君も御身を遠ざけ給い、又兄上も
帰り給わぬと覚えたり、有りて甲斐無き我が命、いで此山中に切腹して母上の御跡を慕い
参らせん」と刀追取り馳出す、小桜姫劇てヽ抱き留め「先ず待ち給え虎王どの、御身が切
腹なしたればとて兄君が国へ帰り給うにもあらず、荒次郎君の御言葉は道寸公への義理を
思い給うなり、先ず一旦妾が方へ御入あって後の思案を定め給え、如何に方々、此幼き人
を暫し妾に預け給え、妾が家に伴いて懇に守護し申すべし」と時に取ての取捌き、左衛門
重氏進出で「それこそ屈強の事にて候、我君とて道寸公への義理を思し召さば此庵室には
置き給うまじ、又虎王どのとて我君への義理を思し召さば国へは帰り給うまじ、姫君が、
イヤ、其末広売こそ世に情けある女にて候えば、虎王どのを暫し預けて置き給え、其内に
我等談合し好きに工夫を為すべきなり」と勧め立れば荒次郎、今はとて是非も無く、人々
の言葉に従いける、小桜姫打悦び「さらば虎王どのとやら、見苦しくは候えども、是より
麓に降り、妾が住居へ御入りあれ、其内必ず兄君を説き参らせて御身を此に伴うべし、暫
しの内の御辛抱なり、いざ妾と共に来り給え」と虎王丸の手を執て自ら先に立ち、さしも
険しき山坂を痛わりながら降り行く、其身は心に嬉しけれど、子細を知らぬ虎王丸は折角
尋ねし兄上に別るヽ事が悲しやと、後ろの方を振返り、遙に庵室を打眺めて目こそ涙にか
き曇る、空さえ闇き雨模様、谷を隔てヽ啼く鳥の蓑笠欲しいと聞えたり、