72 櫓の上(思いがけなや)

 両虎深山に闘えば万木為に震い衆草為に偃すと聞く、日頃淋しき天神が原も三浦・北条
両家の兵北と南に陣を張り、殺気殷々として天をも衝かん有様なり、此時荒次郎義意味方
の兵を靡き「今日は北条勢と手始めの合戦なり、斯ばかりの敵を破り得ずんば爭か小田原
城に攻入らん、面々日頃の勇気を奮って前なる敵を打破り候え」と三百余騎を真丸に纏め、
流星の如く北条勢に攻め掛る、北条勢も予て期したる事なり、斯る小勢に破られなば弓矢
の名折と気を励まし此を先途と防ぎける、攻むるは勇将、防ぐは智将、陰に掛れば陽に開
き、進むも引くも互の掛引、更に隙間のあらざれば、勝負は俄に決し難し、荒次郎義意心
竊に氏綱の軍振を感じ、尋常に合戦しては容易に此敵を破り難しと、自ら精兵百騎を従え、
不意に戦場を横に抜出し、敵将氏綱が本陣を目掛けて矢の如く突き入ったり、荒次郎自ら
陣頭に駒を進め、例の四尺三寸の大太刀を真甲に振翳し、当るを幸い薙ぎ立つれば、此勢
いに辟易し、流石の北条勢も防ぎ兼ねて見えたり、大将氏綱味方を励まし暫しが程は必死
になって闘いけるが、三浦勢の鉾当り難きを察し、強いて斯る敵を防がば却て多く味方を
損ぜん、一旦一の宮の城中に引揚げて外に計らう便ありと、俄に兵を纏め相模川を打渡り
一の宮の方へ引退く、勝に乗ったる三浦勢退く敵を追い詰めて、一の宮の城まで討入りに
せよやと無二無三に追い掛けヽるが、彼方も聞ゆる北条氏綱退軍の法道に適い、更に隊伍
を乱さねば、三浦勢も容易に其陣を紊すこと能わず、是も兵を纏め北条勢が後ろより平押
しに押し行きて、一の宮の城に攻め掛りぬ、然るに北条勢は城に入って城門を閉じたるよ
り鎮まり返って音もせず、三浦勢三百余騎が今木戸際まで攻め寄するに、城中より一矢も
射出さヾれば、荒次郎義意怪んで駒を止め小手を翳して城中の様子を望みけるに、此時城
門の櫓を開き悠然として立出でたる北条新九郎氏綱屹と敵陣を見渡し「如何に義意殿に物
申さん、御身が鳶尾山にある事は我等疾くより知りたれども、御身と道寸殿と不和なるよ
し、さるに依て御身を憐み態と其侭になし置きたるに、不意に起って我が城を襲うとは何
事ぞや、御身に害心ありと知らば疾くより鳶尾山へ押寄せて御身の首を取るべきに、人の
情けを余所にして攻め寄せられし子細は如何に」と大音声に呼われば、荒次郎仰ぎ見て「舌
長し氏綱、我が此城へ攻め寄せしは父への孝を思えばなり、それよりも汝が父早雲こそ如
何なる子細あって三浦領には攻め入りしぞ、先ず其言訳より聞き申さん」、氏綱「さあ父
の三浦に攻め入りしは、楽岩寺どのに頼まれ、義に依って軍を起したるなり、然るに御身
が人の情けを無になして、理不尽に此城を攻められなば、此方にも計らうべき子細あり、
当城には先頃より御身の弟虎王丸を預かり置けり、幼き人の事なれば憐みを加えて隠まい
しに、御身が我等を敵とせば幼き人に害あらん、我等が手に在る虎王丸、殺すも生かすも
御身次第、いざ心を据えて返答あれ」と兵士に命じ虎王丸を櫓の上に引出さしむ、あわれ
や虎王丸は敵人の擒となり、長き憂いに俤を痩せ悄然として荒次郎の方を見下したり、荒
次郎これを見るや奮然として鞍がさに突立ち上り、我を忘れて城門際まで駒を進めぬ、吹
く木枯し、松に当りて颯々と音劇し、