山を抜く刀も折れて松の雪、百万の剛敵には怖れざる荒次郎義意なれども、今眼前に虎
王丸の人質を示されて、張り詰めし勇気も俄に挫け、櫓の上を望んで茫然たり、扨も虎王
こそ由無き所に捕らわれたるよな、救わんとするも力及ばず、攻めんとすれば弟の命危し、
仮令此城を破って小田原城に攻め入りしとて、義理ある弟を殺しなば、父への言訳立ち難
し、兎も角も一旦此を退き後に緩々計うべし、俄に兵を引上げ相模川の岸に陣を取り、諸
士を聚めて虎王丸を救うべき評議を擬しける、厚木大膳家忠進み出で「今日の合戦、我兵
三百余人を以て敵の八百余騎を破りしなれば、我等の武功は立ちたりと申すもの、虎王君
の事さえ無くば、当城を攻め落し小田原に進まんは易かるべきに、何時の間にか若君の当
城に居給いしこそ残念千万、是が智勇鋭き氏綱にて無かりせば、城中に紛れ入り美事若君
を救い奉るべきが、氏綱の固めし当城故容易に其事を行い難し、此処に彼是と暇取りて其
内本国の合戦難儀とならば、折角の御出陣も水の泡となり申さん、若君を救わんことは後
の謀と定められ、小田原征伐の議を変じて是より直に本国三浦へ御越しあるべし、後ろよ
り小田原城を襲うも、前より早雲の兵を破るも道寸公を救い参らせんは同じ事にて候」と
軍議を述ぶるに、荒次郎沈吟し「其言葉は尤もなれども、今虎王の身を救い得ずして独り
三浦に赴かば、我身こそ三浦の家を継がん為、弟一人を敵中に捨てたりなんどと父君にも
疑われん、合戦に功を立つるも再び讒者の舌に掛らば却て父君の御憤りを増さん計り、何
卒して虎王丸を救い出すべき道は無きか」と独り心を苦め給う、三百余人の勇卒も我君の
胸中を察し参らせて鎧の袖を絞りける、菊名左衛門重氏落る涙を振払い「若君が斯くなり
給うは皆某が落度にて候、某こそ小桜姫より若君を預かり申し、命に換えて守護致すべき
に、心の油断ありたればこそ若君の御姿を見失い申せしなり、されば若君を救い奉らんこ
とは何卒某に御申付け下されたし、我君が此陣を据えて敵城を窺い給う内は、敵の用心怠
り無くして却て救うべき折も無けん、我君は大膳の言葉の如く、一旦兵を北方に引上げら
れ、武州の地を廻って三浦表に御出陣あるべし、某一人当城の辺りに隠れ、城中のものヽ
油断を見済まし、必ず若君を救い参らせん」と覚悟定めて申しける、荒次郎歎息し給い「イ
ヤ虎王を失いしは汝が罪にあらず、全く我身が父君への義理を思い、庵室へ置かざりし事
の過ちなり、兎に角今宵は此に陣し明くるを待って何れにも決すべし」と一旦兵士を休息
せしめける、然るに夜の更くる頃、兼て本国へ遣わせし斥候の者馳せ帰り、住吉城も愈々
落ちて道寸公大崩れの険阻に引上げ給い、其処に於て有無の決戦を催し給うべき噂なりと
告げたり、荒次郎大に驚き「父君とて斯くまで脆く敵に破られ給うべき御身ならぬに、此
度の合戦最初より手違いの多かりしは、全く三浦家の運の尽きたると覚えたり、有無の決
戦に参り合わずば我身は愈々不孝の子とならん、此上は虎王の事を重氏に任せ、武州を廻
って三浦表へ赴くべし」と菊名左衛門一人を跡に残し、急に隊伍を整え夜に紛れて遠く一
の宮を離れける、
城中にては北条新九郎氏綱此夜独り櫓に登りて敵陣の様子を窺い居たるが、俄に多目権
平を呼び「アレ見よ、敵兵は夜に紛れて退くと覚えたり、是は必ず住吉城の破れたるを聞
て本国へ赴くならん、荒次郎だに退かば我等も此城に用は無し、急ぎ三浦表に出張して父
君の合戦を助くべし、疾く其用意を仕れ」と是も鋭き智将の眼力、流石北条二代の大将軍
とぞ見えにける、