81 月前の舞(面白や)

 月には心無けれども観る人の情同じからず、牢屋の中に虎王丸、さし込む月影を眺めて
独り断腸の思に沈み、鳴く虫の音に耳を峙てヽ転た感慨の情に堪えず、光隈無き今宵の月
定めて城中をも照すらん、城中に坐す父君・兄君如何に此月を観給いけん、又姉上小桜姫
も近き陣中に在しながら相見ることもならぬ悲しさ、月に写ろう影あらば我が思う人の姿
こそ月の鏡に写れかしと、思わず顔を揚げ外面の方を眺むるに、それかあらぬか女の姿朧
気ながら此方へ歩み来る如し、扨は我心の通じて姉上の尋ね来給いしか、それとも狐狸妖
怪の我身を欺かんとて斯る姿を現わせしかと眸を擬して窺いける、女の姿は益々側に近寄
れり、牢屋の番兵早くも見咎め「其処へ参りたるは何人なるか、此は大事の捕われ人を預
る処なり、余人の妄りに来るべき場所ならず、疾く彼方へ立去り候え」と声を掛くるに小
桜姫嫣然と打笑い「そは心無き番兵かな、妾は敵にても無し、又怪しきものにも非ず、寄
手の大将楽岩寺種久が娘小桜なり、月の景色の面白さに我を忘れて陣中を迷い出で、眺め
好からん処もがなと此辺りまで彷徨いしに、此山の根方ほど心に適いし所は無し、前に見
ゆるは新井の城、後ろは武山・大楠山、左手に遠く連なるは相模の海の白波こそ月に映じ
て見えたるぞや、世に得難き景色なれば此にて月を眺むべし、番兵深くな咎めそよ」と石
に腰掛け余念も無く四辺の景色を眺めたり、番兵も姫と知りて心を安め「今の世の巴御前
と噂に聞きし姫君が此にて月を眺め給わば我等も如何計り心強く候わん、我君氏綱公が兼
ての御下知に虎王丸をば城中より盗みに参らんも計り難し、心して守護せよと堅き仰せを
蒙りたれば、我等は唯敵人の来らんことをのみ怖れ候」、小桜姫「それは心労気の毒なり、
妾が此にある内は敵勢不意に寄せ来るとも妾一人にて追払わん、毎日の疲れを休めん為、
汝等も此に来って月の景色を見候え、幸い此に一樽の酒あり、杯中の月と云う事もあれば
来り一盞を傾け候え」と心ありて番兵に酒を勧む、されども番兵容易に来らず「御志は難
有く候えども、陣中の掟に堅く酒を禁じ、もし犯すものあらば命に換ゆるが北条家の軍令
にて候えば其御盃は収められ候え」、小桜姫「それは敵陣に臨みし時の軍令なるべし、多
く得難き秋の夜の月を眺むるに酒無ければ興も無し、妾が勧むる酒なればナニ拒むことあ
るべきぞ、軍令に触れなば妾こそ申訳致さん、月見る友や酒の友、物淋しければ此に来っ
て妾が対手を為し候え」と強いて番兵を促すに、番兵も斯る姫君より酒賜わらんこと身の
冥加なり、拒むは却て恐れ多しと遂に姫の側に聚り、恵みの酒に日頃の心労を忘れて嬉し
き夜やと悦びける、小桜姫興に乗じ「修羅の合戦を余所にして今宵の月を眺めんこと再び
得難き清会なり、風雅の道に遊ぶものは春には花に狂い秋には月に狂うよのう、妾も春の
花の頃浮かれ浮かれて末広舞と申す舞を舞いたりしが、今夜の興にて候ほどに一さし舞い
て見せ申さん、小笹に代わる大薙刀、紫縅しの大鎧も時に取ての舞の袖、あら面白き夕か
な」と独り浮かれて末広舞を奏し給う、番兵どもは月宮殿に白衣の舞を観る心地して茫然
として我を忘れ、酒にも酔い景色にも酔い、又は舞の手振の珍らしきにも酔い果てヽ、夢
とも無く現ともなく其侭其処に酔い伏したり、小桜姫此隙ぞと身を忍ばせて牢屋の前に進
み寄る、