「懐かしや虎王どの」と外より呼ばわる声に応じて「お懐かしや姉上」と内より答うる
虎王丸、隔ての格子無かりせば、縋り付きたし抱きもしたし、小桜姫落る涙を振払い「虎
王どの、今迄はさぞ妾を怨みて居給うらん、知らぬ事とは云いながら御身を斯る姿となせ
しも皆妾が罪にて候、妾とて御身を忘れしにあらねども、末広売に欺かれ、一の宮ならぬ
小田原へ連れられて、父と共に北条早雲がかヽりゅう人となり、御身が方へ音信れんとす
るも人目繁くして便りを得ず、其内に此度の合戦起り、御身の一の宮の城に捕われ、荒次
郎君も為に兵を返し給いしと聞き、其時の妾の駭き如何ならん、直ちに小田原城を馳せ出
でて単騎一の宮に馳せ着きしが、氏綱の計らいにて御身は此地に送りたれば、救わんとす
るに術も無し、心に染まぬ合戦なれど御身を助けん其為に妾も此まで出陣せり、扨も御身
は如何にして一の宮に捕われ給いしぞ」、虎王丸「其事は今更申すも詮無けれど、我身も
末広売に欺かれ、姉上に逢い参らせんとて一の宮に入りしなり、さりながら是は独り末広
売の罪ならず、兄上が我身を本国に帰さんとし給いたれば、某は独り身を隠しゆくも無く
て末広売に逢いしなり、兎ても角ても捨てたる此身、一の宮に捕われずば中津川にて死に
もしつらん、斯くなり行くも運の末、怨みとは更に思わず候」、小桜姫「御身が一の宮を
出でられし時、菊名左衛門御身を救わんとて討死したりと承る、其時の有様御物語候え」、
虎王丸「其時の有様申すに付けて口惜しや、多目権平長康我身を此に送らんと一の宮の裏
門を立出でしに、百姓姿に身を窶したる菊名左衛門不意に躍り出でて、我身を奪い取らん
とす、権平も聞ゆる勇士なり、さはさせじと立向い、互に暫く闘いしが、左衛門の勢い鋭
くして権平危く見えける処に、何者が射たりけん白羽の尖り矢飛び来って左衛門が右の腕
に立つ、さしもの重氏力弱る処に、北条家の兵士おり累なって遂に其首を取りしなり、眼
前に味方を殺され我身も共に死なんと思いしが、否々死ぬべき時はこそあるらめと惜しか
らぬ命永らえ、今は斯く姉上に逢い奉つる嬉しさよ」、小桜姫「早く妾が救いなば、斯る
難儀はさせまじものを、今宵を過ごしては再び斯る折も無けん、いでいで番兵の目覚めぬ
内に妾が見送らん、新井の城の搦手より城兵を呼んで竊に城に入給え」と大力無双の小桜
姫、戸口の錠に手を掛けて力に任せて捻じ切らんとす、虎王丸何思いけん、あわてて中よ
り姫を留め「姉上の御志は嬉しけれども、我身は覚悟を定めたり、構えて其戸を開き給う
な」、小桜姫手を留め「それは不思議の言葉かな、妾は御身をこそ救わん為に是まで出陣
したるものを」、虎王丸「某は唯一目姉上に逢い参らせんとのみ祈りたれ、此場を遁れん
所存は無く候」、小桜姫「扨は幼き御身の事なれば、早雲が言葉を誠と心得、明日城門に
至りて両家の和睦を計らわんと思い給うか、早雲の言葉は偽りにて、上杉公の援兵を防が
ん為一時の計略に御身を使わん心なり」、虎王丸「さあ某も其偽りを知ればこそ、快く受
合いて候なり」、小桜姫「偽りと知って受合いしとは如何に計らう所存なるや」、虎王丸
「明日こそ我身の最後なり、城門に至り兄上を呼出し、上杉公の援兵一万五千今相州中郡
まで押出したれば、心を尽して籠城あれと誠を告げて死なんのみ」と心を決して答えける、