1293年(正応6年 8月5日改元 永仁元年 癸巳)
 

2月7日 [島津家文書]
**関東御教書
  正八幡宮神輿の事、綸旨を下さるる所なり。嶋津本庄役に依って、神輿を動かし奉る
  べきの由、所司神人等結構すと云々。もし御入洛の事有らば、薩摩国守護、地頭・御
  家人等、留め奉るべきの状、仰せに依って執達件の如し。
    正応六年二月七日        陸奥守(花押)
                    相模守(花押)
  下野三郎左衛門の尉殿

2月9日 [親玄僧正日記]
**関東御教書案
  異賊降伏御祈りの事、殊に懇勤せられ給うべきの由、これを仰せ下さる。恐々謹言。
    正応六年二月九日        陸奥守(判)
                    相模守(判)
  謹上 太政僧正御房

2月11日 [安藝厳島御判物帖]
**関東御教書案
  異国降伏御祈りの事、御劔一腰・神馬一疋を諸国一宮に奉献せらるべきなり。能登・
  安藝両国分、早速沙汰致し、請け取りを執進せしむべきの状、仰せに依って執達件の
  如し。
    正応六年二月十一日       陸奥守(御判)
                    相模守(御判)
  備前々司殿
 

3月20日 [安藝厳島御判物帖]
**関東御教書案
  異国降伏御祈りの内、安藝国厳島社大般若経転読並びに御神主用途十二貫の事、早速
  沙汰を社家に進す。請け取りを執進せしむべきの状、仰せに依って執達件の如し。
    正応六年三月二十日       陸奥守(在判)
                    相模守(在判)
  備前々司殿
[薩摩新田神社文書]

**関東御教書案
  異国降伏御祈りの事、薩摩国新田宮大般若経転読並びに御神楽用途銭十二貫(一社別)、
  早速沙汰しこれを送る。社家の請け取りを執進せしむべきの状、仰せに依って執達件
  の如し。
    正応六年三月二十日       陸奥守(在判)
                    相模守(在判)
  下野三郎左衛門の尉殿

3月21日 [島津家文書]
**関東御教書
  異賊警固の為に、兼時・時家を鎮西に下し遣わす所なり。防戦の事、評定を加え、一
  味同心し、籌索を運すべし。且つは合戦の進退、宜しく兼時の計に随うべし。次いで
  地頭御家人並びに寺社領本所一円地の輩の事、守護人の催促に背き、一揆せざれば、
  注し申すべきなり。殊にその沙汰有るべきの由、薩摩国中に相触るべきの状、仰せに
  依って執達件の如し。
    正応六年三月二十一日      陸奥守(花押)
                    相模守(花押)
  島津下野三郎左衛門の尉殿

3月23日
  伊東刑部左衛門の尉祐頼、時村朝臣の宿所(若宮小路)の前に於いて殺害せられをは
  んぬ。
 

4月12日 [鎌倉大日記]
  大地震。建長寺地震に依って顛倒、一寺余さず焼く。打ち殺さるる者一千七百余人。

4月13日
  寅の刻に大地震。山頽れ、人家顛倒し、死者その数を知らず。大慈寺の丈六堂以下埋
  没、寿福寺顛倒、巨福山顛倒、乃ち炎上。所々の顛倒計を称うに遑あらず。死者二万
  三千二十四人と云々。

4月21日 [比志島文書]
**北條兼時書下案
  石築地以下要害構えの事、関東より度々仰せ下さるると雖も、沙汰無しと云々。不日
  にその功を終うべし。難渋の所々に於いては、注し申すべきの旨、薩摩国中に相触れ
  らるべく候。仍って執達件の如し。
    正応六年四月二十一日      越後守(御判)
  下野三郎左衛門の尉殿

4月22日
  寅の刻、平左衛門の尉頼綱法師(杲円)一族誅されをはんぬ。但し宗綱殃を脱がれ、
  佐渡の国に配流せられをはんぬ。
[神明鏡]
  平左衛門の尉頼綱法印、子息助宗誅られをはんぬ。
[保暦間記]
  平左衛門入道杲円驕の余に子息廷尉に成たりしが、安房守に成て飯沼殿とぞ申ける。
  杲円父子天下の事は安房守を将軍にせんと議しけり。彼入道嫡子左衛門宗綱は忠ある
  仁にて、父が悪行を歎てこの事を貞時に忍やかに申たり。この上はとて左衛門入道杲
  円父子を誅せられをはんぬ。宗綱は一旦佐渡の国へ流罪せられけれども、召帰されて
  後には管領に成にけり。然どもまた後に上総の国へ流罪せらる。

4月23日 [比志島文書]
**島津忠宗施行状案
  筥崎石築地以下要害構えの事、今月二十一日越後守殿の御教書案此の如し。度々相触
  る所の加佐三尺並びに裏芝破損に及ぶ事、来五月二十日以前に功を終うべし。もし猶
  違期せしめば、注進せしむべし。仍って執達件の如し。
    四月二十三日          左衛門の尉(在判)
  薩摩国地頭御家人御中

4月27日 [仁和寺所蔵文書]
**弁秀書状・某勘返状
  関東以ての外騒動の由、承り及び候。大地震と云い、また平禅門誅害せらるの由、風
  聞し候。必定に候か。然れば以ての外に事に候か。禅空今に於いては思きりたる事有
  にや。驕り久からず候。既に人口に落ぬる、不便の事に候。この旨を以て披露せしめ
  給うべき候。弁秀恐惶謹言。
    四月二十七日          弁秀(上)
  □□寺主御房
 

5月5日 [安藝厳島御判物帖]
**平正信送状
  異国降伏御祈りの事、去る二月十一日の関東御教書御施行此の如く候。御劔一腰・神
  馬一疋送り進し候。請け取り給うべく候。恐々謹言。
    五月五日            平正信(花押)
  謹上 一宮神主代殿

5月7日 [諸家文書]
**野上資直着到状
  豊後国御家人野上太郎清原資直、今度の騒動に依って、昨日馳参せしめ候。この旨を
  以て、御披露有るべく候。資直恐惶謹言。
    正応六年五月七日
      「承りをはんぬ(兼時花押)」

5月8日 [肥後武雄神社文書]
**武雄頼門着到状案
  関東の御早馬今月三日に到来するの由、四日(亥の時)承り及び候の間、同六日馳参
  せしめ候。この旨を以て、御披露有るべく候。恐惶謹言。
    正応六年五月八日   肥前国御家人武雄大宮司頼門(裏判)
       承りをはんぬ (兼時御判)

5月9日 [肥前来島文書]
**大江通継着到状
  肥前国御家人大嶋彌二郎通継、今月三日関東の早打到来するの間、同七日馳せ参上せ
  しむ所に候。この旨を以て、御披露有るべく候。恐惶謹言。
    正応六年五月九日        大江通継(上)
      「承りをはんぬ(兼時花押)」

5月11日 [薩摩新田神社文書]
**島津忠宗送状案
  進宮
   銀劔  一腰(文桐)
   御征矢 一腰(宇須部尾津保美)
   御弓  一張(長藤)
  右、御宝物の事、関東よりこれを進宮せられ候。早速請け取り給わり、進上すべく候。
  仍って執達件の如し。
    正応六年五月十一日       左衛門の尉(在判)
  新田宮執印殿

5月20日
  評に云く、惣領罪科の時、各別相伝の輩混領せらる事、安堵の御下文を帯せずと雖も、
  各別証拠分明ならば必ず付くべきの由引付に仰せらる。同日父祖四代を以て御家人た
  ると云々。
  評に云く、領家と地頭中分の事、新補地頭に於いては折中せらる。本補地頭限り許容
  せられざるの条、先々の沙汰然るべからず。向後は事の体に随い中分せらるべしと云
  々。
 

6月2日 [摂津多田神社文書]
**六波羅施行状
   摂津国多田院造営の事
  右、今年三月二日の関東下知の旨に任せ、当国内棟別拾文銭貨を取らしめ、本堂以下
  の修造料に充用すべきの状件の如し。
    正応六年六月二日        刑部少輔平朝臣(久時花押)
                    丹波守平朝臣(盛房花押)

6月7日 [公衡公記別記]
  東二條院御出家なり。即ち御逆修を始行せらる。左少弁為行これを行う。公衡同じく
  これを口入す。兼ねて戒場御装束を奉仕す。その儀無量光院東庇(御聴聞所なり)を
  以て御所と為す。

6月13日 [比志島文書]
**比志島忠範着到状
  薩摩国御家人比志島孫太郎忠範、去る五月三日関東の早馬下着の事に就いて、騒動せ
  しめ候の由、在国に於いて承り及び候と雖も、遠国に候の上、折節所労候の間、馳参
  せず。今に遅々仕り候。所労減少仕り候に依って、参向仕りしめ候。この旨を以て、
  御披露有るべく候。恐惶謹言。
    正応六年六月十三日       源忠範
     「承りをはんぬ(兼時花押)」

6月25日 [円覚寺文書]
**北条貞時書状
  尾張国篠木庄の事、當寺造営の際、料所として、寺家その沙汰を致すべきの状件の如
  し。
    正応六年六月二十五日      丹波守平朝臣(盛房花押)
                    越後守平朝臣(業時花押)
  円覚寺沙汰人中
 

7月8日 [尊経閣所蔵文書]
**関東御教書
  紀伊国長尾郷(西部兵衛太郎入道並びに舎弟行景等跡)、大和国丹原庄(佐野左衛門
  入道跡)等、先例を守り、沙汰を致さしめ給うべきの由、仰せ下され候なり。仍って
  執達件の如し。
    正応六年七月八日        陸奥守(宣時花押)
                    相模守(貞時花押)

7月18日 [安藝野坂文書]
**関東御教書
  奉寄 厳島社
   因幡国船岡郷半分並びに新庄村半分地頭職の事
  右、異国降伏の御祈りとして、寄進せらるる所なり。てえれば、将軍家の仰せに依っ
  て、寄せ奉るの状件の如し。
    正応六年七月十八日       陸奥守平朝臣(在判)
                    相模守平朝臣(在判)
 

9月19日 [武家年代記]
  山門大講堂以下火。

9月30日 [薩藩旧記]
**島津忠宗覆勘状案
  筥崎警固番役三ヶ月、代官を以て勤仕せられ候、恐々。
    永仁元年九月三十日       忠宗(在判)
  国分掃部頭殿
 

10月5日 [龍造寺文書]
**北條定宗覆勘状
  肥前国役所姪濱警固番役の事、九月分勤仕せられ候をはんぬ。仍って執達件の如し。
    永仁元年十月五日        定宗(花押)
  龍造寺小三郎左衛門入道殿

10月14日
  卯の刻に客星東方に出ず。旬日を経て芒気現れ彗星と為る。

10月16日 [鶴岡八幡宮文書]
**関東御教書
  行綱叙爵の事、免許せらるる所なり。早くその旨を存ぜしむべし。仍って執達件の如
  し。
    永仁元年十月十六日       陸奥守(花押)
                    相模守(花押)
  鶴岡八幡宮神主殿
 

11月17日 [皇年代略記]
  大乗院僧正覺昭と殿禅師信朗と合戦す。
 

12月7日 [東大寺文書]
**関東御教書案
    東大寺衆徒申す條々
  一 周防国宮野庄地頭、公田を押領する由の事
  一 伊賀国鞆田庄拓殖条地頭等年貢未進の事
  一 播磨国大部庄地頭非法の事
    同學侶申す條々
  一 山城国古河庄民等、光明山寺僧教尊阿闍梨以下を殺害、刃傷する由の事
  一 僧慶有並びに伊賀国の御家人成道、慈道等、大和国下笠間庄の内鰹原村及び幡岡
    庄の年貢を押取し、殺害、追捕致す由の事
  一 周防国大前村郡司長田孫太郎泰家、苅田狼藉を致す由の事
   以上解状(書を副え具す)これを遣わす。早速尋ね沙汰を致すべきの状、仰せに依
   って執達件の如し。
    永仁元年十二月七日       陸奥守(在判)
                    相模守(在判)
  丹波守殿
  刑部少輔殿

12月晦日 [比志島文書]
**島津忠宗覆勘状
  警固番役の事、三ヶ月勤仕せられをはんぬ。仍って執達件の如し。
   (永仁元)十二月晦日       忠宗(花押)
  比志嶋孫太郎殿